ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年11月]を短くまとめてのせています。

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  (アドベント1)『イエス・キリストの系図』
マタイの福音書 1章1−17節
2011年11月27日(日)

 この箇所はタイトルの通り系図です。カタカナの名前の並んだとても読みにくいところなのかもしれません。この系図は、ところどころ抜けていたり、名前が間違っていたりすることがわかってきますが、大事なのは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、」であるですから、あまり気にしないでいいのでしょう。それよりもふつうは見られない、変わったところがあります。それは、系図の中に5人の女性の名前が入れられているということです。イスラエルでは男性の名前だけで書かれるものですがこの系図には女性たちが存在感をもって書かれているのです。
 タマルは夫ではなく、しゅうとであるユダによって子どもをもうけました。ラハブやルツは異邦人であり、「ウリヤの妻」にいたってはダビデの不倫相手ですし、マリヤは処女降誕です。救い主イエス様の系図はドロドロとした、罪深い話、スキャンダラスで、タブーが入っています。
 マタイは、イエス様のこの系図の中に、イエス様が人間の罪深さや、弱さの中に、救い主として生まれてきてくださったことを喜びとして伝えているようです。
私達の目から見れば様々な人間模様のある系図ですが神様が人間の弱さの中に、イエス様という希望の光を送って、救い、祝福し、救ってくださろうとしている神様の計画がはっきりとこの系図に読み取ることができます。またイエス様の救いは民族を超えたものであるということも、この系図には表されているのです。
 このクリスマスの時、世界中至るところでイエス様の誕生が祝われます。現実世界では様々な苦しみや困難がありますが、国境を越え、あるいは男女の性別を超えて、イエス様がすべての人の救い主として、神様のところから遣わされたその喜びを共に祝っていきたいと願います。
  『イエス様の沈黙』
マルコの福音書 15章1−15節
2011年11月20日(日)

 大祭司カヤパの前での審問が行われ、サンヘドリンで死刑が決定されました。夜明けまで待ち、いかにピラトの下で十字架を決定的にするのかという協議をこらしたすえに、イエス様をピラトに引き渡しました。
 イエス様の裁判の間、人間の様々な思惑、複雑な関係が入り混じって、まさに人間の罪が顕わにされていきました。祭司長たちが自分達の権力の座の安泰を計ろうとして動き回る醜い「妬み」、その祭司長たちに扇動されたとはいえ、イエス様ではなくバラバと叫び続ける群衆の愚かさ、そしてピラトのいかにも自己保身に終始する彼の優しさとその挫折、そうした人間の罪が蠢いてイエス様を十字架へと追いやっていくのです。
 しかし実はこの裁判を支配していたのは、そうした人間の罪ではなく、神様の永遠からのご計画、深いみ心、そして「イエス様の沈黙」です。イエス様は天の軍勢を呼び寄せて滅ぼしてしまうことも、奇跡を行って問題を解決することもできましたが、弁明することすらしませんでした。ゲッセマネの園では、イエス様が父なる神に必死に祈った時に、神は全く沈黙を守り通しましたが、その時の神様の沈黙が、この裁判の席ではイエス様の沈黙となりました。神様の沈黙は神様の救いに対する意志の堅さではないでしょうか。
 しかし人間は神様の沈黙をいいことに、これを利用して自分の都合のいいことを勝手にするのです。イエス様の沈黙は、十字架の恵み、救いに対する神様の強い意志なのです。私たちはこのことに深く感謝し、またその沈黙を利用して自分を神としてしまうのではなく、その沈黙を持って支配されるイエス様に委ね「イエス様の沈黙」に恵みと希望と覚え、このイエス様に信頼して参りましょう。
  『私は知りません』
マルコの福音書 14章66−72節
2011年11月13日(日)

 この箇所はペテロは三度もイエス様を「知らない」と否定した有名な箇所です。しかもなんと、71節 では、のろいをかけて誓って、「知らない」と否定したのです。
ペテロがイエス様を否定した理由はいくつか想像できます。たとえばユダヤ当局者たちを恐れていたからです。もちろん、そうした恐れもあったことでしょう。
 また、イエス様の逮捕に動揺し、ただ逮捕されたくないという思いだったかもしれません。
そして否定した理由はそれだけではなく、失望があったのではないでしょうか。周りの声も、自分の声も「イエス様を信じる愚かな者」と聞こえてしまったかもしれません。つまり仲間のひとりだと思われることが恥ずかしいということです。
 私たちは、どうでしょう。思いもかけないことを経験すると「こんなはずではないのに」、期待通りに行かないと「どうして」などとそんな思いを持ってしまいます。そして、残念なことに、イエス様から離れ、イエス様を知っていることやイエス様に従っていくことに「恥」を感じてしまうことすらあるのです。
 今日私たちは「私は知りません」という弱さを持っているということを認識しましょう。しかし自分を責めるだけで、その失敗から学ぼうとしない人になってはいけません。イエス様は、ペテロの大失敗を見て、憐れみ、彼を深く愛して見つめられ、そんなペテロを前もって教会のリーダーとなり他の弟子達を力づける者となるように導かれていたのです。
自分の弱さに目を向けつつ、私たちのために命を捨ててくださったキリストの十字架を恥じるのではなく、誇る者として歩んでいきましょう。 
 『わたしは、それです』
マルコの福音書 14章53−65節
2011年11月6日(日)

 イエス様が逮捕されたのは真夜中でしたが、すぐにイエス様に対する審問が始まりました。
 逮捕されたイエス様の姿は、どんな姿だったのでしょう。イエス様は、様々な偽りの証言がなされているのをじっと聞きながら、ただ沈黙していました。すると、色々な偽りの証言が繰り広げられるのですが、その証言は一致しなかったのです。証言自体が自己崩壊してしまうような訴えしか、イエス様の前に出されなかったのです。偽証、つまり偽りとは、結局、自から崩壊してしまうものです。そしてイエス様が正しい罪のない方であることを逆に明らかにすることになったのです。聖書は、この沈黙の姿を通して、偽証には本当の力はないこと、私たちはその偽ることのできない神様の前を歩み、真実の生き方こそが大切であるのです。
 イエス様は偽りの証言には一言も答えられませんでしたが、「キリストか」との質問には「わたしは、それです」とお答えになられました。イエス様は、ご自分を偽ることができないからです。そして、イエス様は、ご自身についての真実、救い主であり、神の子であり、裁き主であるということをお告げになったとき、皮肉にも人々は死刑を宣告しました。
このようなイエス様の忍耐の姿に対して、私たちは「確かにあなたは救い主です、神の子です、イエス様を人生の主としてあがめ受け入れ生きていきます」という応答が求められます。そのイエス様が「わたしがそれです」とおっしゃったことに、「私はそのあなたを信じ、あなたに従います」と応答していこうではありませんか。イエス様に信頼してイエス様の忍耐を見上げながら、様々な場面でイエス様の喜ばれる道を選択して歩んで参りましょう。