ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2011年12月]を短くまとめてのせています。

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  (クリスマス)『ナザレ人と呼ばれる』
マタイの福音書 2章13−23節
2011年12月25日(日)
 
 この箇所の最後のイエス様の誕生についての預言が語られていますが、旧約聖書のどこにもこの言葉はみあたりません。
 このことは色々と説明されています。メシヤがそしられ軽蔑され、はずかしめられるということは、旧約聖書に繰り返し語られており預言者たちが言っていることですから、人々がまさかと思うような貧しいガリラヤの寒村ナザレで暮すことこそ、さげすまれたメシヤの預言の成就であると理解しておけば良いでしょう。
 しかしそれだけでなく別の意味もあるといくつかの注解書で指摘されています。
 この「ナザレ」という言葉は「ネゼル」ではないかというのです。「ネゼル」とは日本語で若枝という意味のかけ言葉になっているのではないかというのです。
 「若枝」といえばピンと来る方も多いでしょう。有名なのはイザヤ書53章でしょうが他にもいくつか(イザヤ11:1、エレミヤ23:5、33:15、ゼカリヤ3:8、6:12など)書かれています。
いずれにしても、このメシヤがさげすまれるということです。それはエルサレムでもなくベツレヘムでもない、人々がまさかと思うようなさげすまれたガリラヤの寒村ナザレで暮す、さげすまれたメシヤなのです。そして若枝の主として、弱さと悲しみを背負うただの人間として、苦しみを背負ってくださる救い主として育たれていったのです。
 もうすぐやってくる新しい年は、希望のもてない、不安に満ちた世界のように見えます。しかし、そのような時だからこそ、貧しくなられ、さげすまれてくださった若枝のような主が、わたしたちのそばにいてくださり、共に痛み苦しみながらも、新しいいのちの芽吹きを見せて下さるのだと信じ、このイエス様と共に歩んでまいりましょう。
  (アドベント3)『黄金、乳香、没薬』
マタイの福音書 2章1−12節
2011年12月11日(日)

 この箇所は有名なエピソードですが東方の博士たちは生まれたばかりのイエス様に黄金と乳香と没薬を贈り物として献げるのでした。
黄金は、そのころ、王に献げるにふさわしい物とされていました。黄金は金属の中の王といっても良いでしょう。また王の冠も金で作られます。文字通り、偉大な王に献げられるものでした。
 乳香は、祭司のための献げ物であるとも言われていました。乳香は、祭司が香として焚いて神に献げました。それ以外の時に使うことが禁じられていたということもあるようで、祭司だけが使うものとされたのです。ヘブル書では、イエス様は私たちの大祭司であると書かれています。
 没薬はクリスマスの闇の部分、イエス様の十字架を預言するような贈り物でした。別名「死者のための贈り物」などとも言われ、新約聖書のほかの箇所では、十字架上で差し出された「没薬を混ぜたぶどう酒」というところ、また、ニコデモが埋葬の為に用意した「没薬とアロエを混ぜ合わせたもの」というところに出てきます。まさに十字架と死をあらわしています。
 黄金が捧げられ、新しい王、偉大な王として東の国の博士たちに礼拝されながらも、十字架をその背中に担って一生を歩き続けられた王です。乳香が捧げられ、これまでの社会的な地位としてではなく、真の神であり、真の人であるという、真の大祭司、私たちと神様をつないでくださる完全な大祭司は、いけにえを捧げる役であったお方ご自身が十字架で罪の身代わりとなられ、供え物となられました。
 このクリスマスに「十字架の主」を見上げ、またイエス様が再び来られる準備の時を覚えて過ごして参りましょう。
  (アドベント2)『みことばの成就』
マタイの福音書 1章18−25節
2011年12月4日(日)

 クリスマスのエピソードの中でもヨセフが中心の箇所です。19節にヨセフが「正しい人」と書かれていますが、当時のユダヤ社会でいえば、マリヤを妻として迎えるのではなく離縁するのが本来でした。しかし、大きなショックを覚えながらも、マリヤを恨まず愛し、この後も生きていくことができるようにと考えをめぐらせ、悩みに悩んで苦渋の決断をくだしたのです。これが愛情深い、やさしいヨセフの正しさでした。
 そこに主の使いが夢の中に現れたのです。そして父親の役目として「イエス」と名をつけなさいと主の使いは命じたのです。イエスとは、「主は救い」あるいは「神が救われる」という意味です。さらにマタイは、イザヤ書を引用して、インマヌエルという呼び名についても紹介し「神は我々と共におられる」という意味まで解説してくれています。
「神が救われる」という意味のイエスという名前、そして「神が我々と共におられる」という意味のインマヌエルという呼び名。この二つのすばらしい名前を、マタイは私たちに伝えています。
 今日のタイトルは「みことばの成就」とさせていただきました。イザヤのみ言葉が成就したのです。これは私達にとっても同じことです。神様のご計画がはっきりと推し進められていくその中に、私達の神様を信じる信仰の応答が用いられ、私たち自身にも確信、平安、感謝、喜びが与えられるのです。神様のなさること、みことばに委ねていければたとえ人間の思いでは深い悩みにおちいってしまうような状況でも、神様の計画だ、神様の最善だ、神様が救ってくださると思えるのです。私たちも私たちそれぞれの歩みに起こる出来事を受け入れながら、そこに共におられる神、救いの神に身をゆだねて歩んでまいりましょう。