ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年1月]を短くまとめてのせています。

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  『不信仰とかたくなな心』
マルコの福音書 16章9−14節
2012年1月29日(日)

 この箇所を読み、気づかされる点は「信じなかった」という言葉が繰り返し出てくる事です。この信じなかったということに関して、有名なエピソードが疑い深いトマスの箇所(ヨハネ20章)です。そしてそこには復活を信じるという事は、本来は「見ないで信じる」という事だと分かります。何故「見たので信じる」という事ではいけないのでしょうか。
 「見て信じる」というのはそこに誰とも人格的な関係を必要としません。自分の目を信じて確認するということです。しかし「聞いて信じる」というのは誰か人格的な関係、すなわち「言葉」を通して信じる、誰かを通して信じるということになるのです。誰かの話しを信じるかどうかということになるでしょう。そこには人格的な関係が必要となってくるわけです。信仰は相手を信じるという事、相手を信頼するという事ですから、信仰は聞いて信じるという事が大切だということになるのです。
 聞いて信じるため、聞いて信じられるようになるためには、私たちの心のかたくなさと私たちの不信仰をまずイエス様によって打ち砕いてもらわなければなりません。その私たちの心のかたくなさと不信仰をうちくだくために、「信じなかった」と何度も記されイエス様は「不信仰とかたくなな心」を叱ってくださったのです。
 私たちの「不信仰とかたくなな心」ぶりは健在です。復活を「聞いて信じる」者とされた私たちは、その後も、今日も、そしてこれからも「不信仰とかたくなな心」を叱っていただき、砕いていただき、打ち破っていただくために、聞き続け、信じ続けてまいりましょう。さらに神様と、復活の主イエス様と、そして聖霊様との深い交わりの中に歩み続けてまいりましょう。
  『あの方はよみがえられました』
マルコの福音書 15章42−16章8節
2012年1月22日(日)

 イエス様はよみがえられました。神様にとって復活させるという事は大したことではなかったかも知れません。神様にとっては、ひとり子を生き返らす事よりも、ご自分のひとり子を十字架で見捨てるという事の方がどれほど大変であったかなどと考えてみる必要があると思います。
 イエス様が生前、自分は三日後によみがえると知っておりながら、その事を弟子達にも告げておりながら、十字架の前の夜あのゲッセマネの園であんなに思い悩み、苦しまれたのは、十字架で死ぬという事が中途半端にではなく、完全に神様に捨てられるという事であり、それがどんなに大変な事かをよく私たちに示してくれているのです。
 私たちの代わりに御子イエス様が十字架で神様に捨てられたんだという事の深刻さを知らないで、ただイエス様はよみがえったという事を知っても、それは復活を知った事にはなりません。
 この復活は、十字架で神様に見捨てられた者の復活なのです。神様に捨てられるという事の重大性を知ったものが、この復活を通して、生きておられる神様は私達を見捨てない、という事を知るのです。つまり十字架と復活を通して示された罪の赦しとは、どんな事があっても神様はわたしを見捨てないという事が示されたという事です。
 イエス様の十字架と復活を通して、見捨てない神様が生きて働いておられるという事を単純に信じ受け入れて歩んでまいりましょう。毎週の礼拝を通して、私たちの罪が明らかにされ、悔い改めと神様に対する感謝と神様を賛美する心、そして十字架で死んで私たちを赦してくださったそのイエス様の救いをいただいて、復活したイエス様が今日も共に歩んでいてくださると覚え神様に導いていただきましょう。
 『わが神、わが神』
マルコの福音書 15章33−41節
2012年1月15日(日)

 十字架上で息を引き取られるイエス様の箇所です。皆さんもよく知っておられ、何度も読んだことのある箇所でしょう。
今、死のうとしているイエス様が私たちに残してくれたもの、それは、十字架上でのこの「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。神から捨てられると言う事がどんなに恐ろしいことであるか、どんなに人間にとって大変な危機か、そのことをイエス様は私たちに身をもって教えてくれました。
 イエス様は何故、神に見捨てられたと思ったのでしょうか。それは私たちが見捨てられる代わりに、あの神の御子であり、神から見捨てられることを心底恐れ悲しみ痛んだイエス様が見捨てられ、私たちを見捨てない神の愛がはっきりと力強く表されるためだったのです。
 イエス様は神から見捨てられる事の悲痛さを訴え、しかしそれでも最後に「わが神わが神」と、神に祈ることをやめませんでした。罪深い私達もこのイエス様が最後に祈ったように、ただ子どものように「わが神わが神」と、心の底から神に祈ることしかありません。その祈りの言葉を死んだイエス様は私たちに残してくれたのではないでしょうか。
 「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになるのですか」私たちが見捨てられる代わりに、神の御子であり、神様から見捨てられることを心底恐れ悲しみ痛んだイエス様が見捨てられ、私たちを見捨てない神様の愛がはっきりと力強く表された十字架の恵みに感謝しましょう。そして頼りにならないものを頼るのではなく、神様から引き離されることを恐れ、神様を愛し、神様を第一としてこの方にしたがって歩み続けてまいりましょう。
  『イエスを十字架に』
マルコの福音書 15章16−32節
2012年1月8日(日)

 イエス様は死刑の判決がくだされると、ローマの兵士達に渡されました。その後の細かい描写は15:16-20節に書かれていますがまさに、イザヤ書の53章の「苦難のしもべ」の箇所の通りです。
 イザヤ53章5節に「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とありますが、この言葉くらいイエス様の十字架の救いをよく説明している言葉はないでしょう。ところでどうして私たちの傷が、他人の受けた傷によって、いやされるのでしょうか。
 この事が分かるのは、いろいろな経験を通して自分の罪、自分の弱さを身に沁みて分かった人だけなのかもしれません。自分の罪は自分ではどうにも償うことができないという事、その事が本当に分かった人は、この自分の代わりに、懲らしめを受け、呪いを受け、死んでくれる人がいるという事が本当に有り難いと思うのです。
 本当の愛はこの「身代わり」という要素を含んでいます。忍耐を必要としない愛などというものはありませんし、その意味で犠牲をともなわない愛は有り得ません。愛する側はいつもそのように忍耐しているのに、愛を受ける方はいつも鈍感なのです。
私達は鈍感であってはなりません。時として鈍感になってしまってもまた、イエス様に向き直り、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と何度でも心に刻み続けていくことが大事なのです。
 24節に「それから、彼らは、イエスを十字架につけた。」と聖書はその事を記します。恩着せがましくなく、まさに神様の愛をダイレクトに、ストレートに私達に示しています。私達もシンプルにそのまま、この神様の愛を受け、その上で、イエス様に感謝の応答をしてまいりましょう。
  (元旦礼拝)『豊かに施すことのできる方』
エペソ人への手紙 3章20−21節
2012年1月1日(日)

 たくさんの日本人が初詣に出かけたことでしょう。この聖書時代のエペソの町は、宗教の中心アルテミス大神殿がありました。人々はアルテミス神殿に詣でていました。しかしただの偶像で、何一つできない偶像神に対しましてパウロは、エペソの教会に向かってこのみことばにあるような頌栄をささげているのです。
力のない、何も出来ない偶像ではなく、生ける神の無限の力と栄光に圧倒されていたパウロが、その思いをエペソの教会のことを思い書いている手紙で力強く神をほめたたえているみ言葉ではないでしょうか。
 それも「私たちのうちに働く力によって」と言います。つまりその偉大な力が他でもない「私・た・ち・の・う・ち」に働いているのだと言うのです。神様に導かれ、「願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに」された聖書の中の多くの人物に表されているような神様の恵みの施す力が、まさに私たちに、あなたたちに、教会の中で働いているのだということです。何とすばらしいことでしょう。聖書に描かれている目を見張るような神の力が、現在の私たちに、このクロスロード教会にも働いていてくださる、そして私たちの願いや思いをはるかに越えて豊かに施していてくださる、そんな神さまの力強い働きによって、私たちの人生が導かれているのです。
 連合の今年度の主題聖句、そして教会の来年度の主題聖句となりますが、この素晴らしいみ言葉で、私たちの神さまのお姿に対する認識が、どれほど小さかったことかということを悔い改め、また悔い改め続けつつ、この神様にもっともっともっともっと期待して、祈り願ってまいりましょう。