ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年2月]を短くまとめてのせています。

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  『恵みをもって召してくださった方』
ガラテヤ人への手紙 1章11−17節
2012年2月26日(日)

 パウロはイエス様の救いに、律法を加えてしまうユダヤ主義者たちと戦っていました。彼らはパウロの使徒としての権威をおとしめようとし、その上でパウロの宣べ伝えている福音は本物ではないと教えていたのです。彼らは、「自分たちはエルサレムから使徒たちによって遣わされて来たから権威があり、正しい」ということを根拠にしていたのです。
 それに対して、パウロが語ったのは「私は生けるただ一人の神様によって、主イエス・キリストによって召命を受け、使徒として立てられた者だ。」ということだったのです。ここにあるのは、人間の権威によるのか、それとも神の権威によるのかということです。パウロは神様から、そして復活のイエス様から召命を受けた者であるという確信こそ困難の中にあっても彼を伝道者として立たせ続けたものであり、私達の信仰の中核でもあるのです。
 パウロは、人間の権威を頼りに生きるのではなく、ただ生ける神様の召命によって生きる、ただ神様との生きた交わりの中に生きる者へと変えられました。
 私達は最初、教会に集い、聖書の説き明かしを聞き、信仰を与えられました。しかし、クリスチャンはパウロ同様「恵みをもって召してくださった方」であるイエス様と出会い、イエス様によって救われ、イエス様に召されて歩み続けるものなのです。伝統によって召されたものではなく恵みをもって召された者なのですから人格的な神様との交わりの中に歩み続けましょう。
 また私たちの教会が「恵みをもって召してくださった方」を高く掲げ、この方との交わりの中に生きるものたちの集いとなってまいりましょう。
  『キリストの福音』
ガラテヤ人への手紙 1章6−10節
2012年2月19日(日)

 パウロが、このガラテヤ書を通して戦っている相手は「割礼と律法を守らなければ救われない」と教えるユダヤ主義者たちでした。6節を見るとガラテヤの教会の人々がユダヤ主義の人々の教えることをたやすく受け入れてしまったことに驚いています。そしてそれは福音ではないとパウロは言います。
 私たち日本人は自分が努力して、なんとか救われようとするという考えを持っている文化なのではないでしょうか。努力が悪いわけではありませんが、しかし信仰義認ということはそういうことではありません。努力というのであれば救われるための努力ではなく、救われたあと努力するのです。最も大切な努力は、自我と自己主張を排除しつつも、無価値だと思わせようとするサタンに対抗して、神様の愛に応えていこうという努力です。ただし救いに関してはすべての努力を放棄してしまう必要があるのです。
 タイトルを「キリストの福音」としましたが、キリスト福音とは、生きて働いてくださり救いへと導いてくださるイエス様を信じることです。あるいはイエス様の交わりの中に生きるといっても良いでしょう。パウロはそのような福音に反することを宣べ伝えている者はのろわれるべきとすら言うのです。
 私たちの信じている「キリストの福音」は、私たちのすべてを支配し、守り、導いておられるキリスト御自身との交わりです。この「キリストの福音」の中に歩むなら、私たちはこの方を信頼して、確かな歩みを続けることが出来ます。ほかの福音でなく、加えたり変えたりするのでもなく「キリストの福音」の中を歩み続けてまいりましょう。
  『私たちを救い出そうとして』
ガラテヤ人への手紙 1章1−5節
2012年2月12日(日)

 パウロは当時の手紙の形式通り、差出人、宛先、挨拶という形をとっています。形式であり挨拶なのですが、丁寧に見ますと、パウロの思いや主張というものが、はっきりと表れていることが分かります。
 1節では、パウロが、自分は使徒とされた者であるということが他の手紙と比べても強調されていることが分かります。そしてエルサレムにいる使徒たちのような誰かから、使徒に任命された者ではなく、使徒として召し、任命し、遣わしてくださったのは、イエス・キリストであり、父なる神様御自身なのだと言うのです。
 パウロがこれほどまでに自分の権威を主張しましたが、それは、ガラテヤの教会がパウロの伝えたキリストの救いにあずかるためでした。
ですから3節では「恵みと平安があなたがたの上に」と祈っていますが、それはイエス様によって私たちにもたらされた「恵みと平安」です。ですから4節では「私たちを救い出そうとして」と続くのでしょう。
 この悪の世界から救い出され、サタンの支配から神様の支配の中に生きるようにされる。これが救われるということです。そして、すべての人がこの救いの恵みに与ることが出来るようになるということが、神様の御心なのです。そのために、主イエスは十字架の死を遂げてくださったのです。この救いに与ること、それが「恵みと平安があなたがたの上にあるように」ということなのです。そういう思いでの挨拶ですから、神様をほめたたえずにはいられなかったことが5節を読むと分かります。
 私達もイエス様の十字架の恵み、救いの中にある平安、それにたいする神様の計画と熱心、を覚えて今週も神様の栄光を賛美し感謝して歩んでまいりましょう。
 『わが神、わが神福音を宣べ伝えなさい』
マルコの福音書 16章15−20節
2012年2月5日(日)

 よみがえられたイエス様は、11人の弟子に対して「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と命じられました。
 しかし直前ではイエス様はその11人の弟子達の不信仰を叱った(14節)ばかりでした。その弟子達に福音を宣べ伝えるという重要な責任を与えられたのです。福音は、不信仰と心のかたくなさをいつもイエス様によって叱ってもらいながら宣べ伝えられていかなくてはならないという事なのではないでしょうか。
 イエス様は、自分の不信仰をよく知っている人間に福音を宣べ伝える責任と使命を与えられたのです。ですから福音を宣べ伝える者は、自分はもう信仰的に完全になったからではなく、自分の弱さをかかえながら、自分の不信仰と絶えず闘いながら、福音を宣べ伝える事が大事なのです。
 20節では「彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。」と記されてマルコの福音書が閉じられています。弟子たちはイエス様の命令に応答し出ていきました。彼らは従順に神に従い福音を宣べ伝えたのです。そしてそれは人々に大きな影響を与えました。
 これを読む私たちは、他の聖書のことばと同様に「福音を宣べ伝えなさい」とのメッセージをしっかりと受け止めましょう。イエス様は自分の救いだけに満足しないで、「福音を宣べ伝えなさい」と言われます。このメッセージをしっかりと受け止め実行してまいりましょう。
 イエス様は私たちの救い主です。十字架にかけられ、罪の身代わりとなってくださり、三日目によみがえられ、私たちの罪の問題、そして死の問題を解決されました。この方を信じて救われて力強く歩み、またそのような喜びと恵みを人々に証しし、宣べ伝えてまいりましょう。