ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年3月]を短くまとめてのせています。

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 『キリストが私のうちに』
ガラテヤ人への手紙 2章15−21節
2012年3月25日(日)

 パウロは、アンテオケ教会において、「間違っている」とペテロに面と向かって反対しました。もし律法を守ることによって神様に義とされてその救いの道を完全に歩むことが出来るのなら、イエス様が十字架にお架かりになる必要はなかったのです。ということは、イエス様の十字架はあってもなくてもどちらでも良いものになってしまうでしょう。
 律法は、これを守らなければ死と災いとをもたらすものですから、完全にこれを守ることの出来ない私たちには、律法は結局の所、死と災いしかもたらさないのです。しかし、そのような罪人である私たちのために、その一切の罪を救うために、イエス様が十字架に架かってくださったのです。
 この十字架の愛と恵みは大きすぎて十分に受け取りきれないのかもしれません。信仰をもって受け取る時、私たちに与えられている恵みというものが、どれ程大きなものであるかを知らされます。パウロは、ここで改めて自分に与えられている救いの恵みの大きさを思い、驚き、感謝し「生きているのは、もはや私ではなく、キリストが私のうちに生きている」と記すのです。この恵みをどうして無駄にすることが出来るでしょうか。私たちが救われている、この恵みに少しでもお応えしたいから、私たちは神様の使命に生きるのです。使命とは証しであり伝道なのではないでしょうか。
 神様の救いの恵みを無駄にしてはいけません。どうぞこの「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」との恵みを深く味わい歩んでまいりましょう。そして一人一人が置かれている場において神様に応答しましょう。
 『まっすぐに歩む』
ガラテヤ人への手紙 2章11−14節
2012年3月18日(日)

 異邦人伝道の中心教会であるアンテオケ教会にペテロが滞在していたとき、エルサレムからユダヤ人クリスチャンたちが来たのです。彼らは、律法を守らなければ、特に割礼を受けなければ、ユダヤ人にならなければ救われないと考えていた人たちでした。すると今まで異邦人クリスチャンたちと一緒に食事をしていたペテロが、次第に一緒に食事をする席から身を引き始めたというのです。食事を一緒にするということは、私たちは仲間だ、同じ共同体に属する者だということの確認行為で、私たちが現在思う以上に大事な意味がありました。しかも、異邦人伝道をしたバルナバさえも、ペテロと同じような行動をとったというのです。
 クリスチャンにとって最も大切なことの一つは、信じているように生きる、語っているように生きるということです。そうでなければクリスチャンも教会も力を失うのです。ペテロやバルナバの行為を13節では「本心を偽った行動」とあります。新共同訳では「見せかけの行い」口語訳では「偽善の行為」と訳しています。思っていることとやっていることが違う。言行一致でない、あるいはペテロの行動が一貫していない、そう言っているのです。
 そうなってしまう理由の一つが「人の顔色をうかがう」とか「何事もなく」ということです。ペテロやバルナバでさえそうだったのですから、まして私たちはすぐに道を踏み外してしまう可能性が高いのです。
 私達が「まっすぐに歩む」べきは福音の真理に対してで、「あれをせよ、これをするな」という律法に対してではありません。イエス様の福音だけをみて歩むのです。その時はじめて私たちはまっすぐに歩くことができるからです。心にしっかりと福音を持って歩んで参りましょう。
 『福音の真理』
ガラテヤ人への手紙 2章1−10節
2012年3月11日(日)

 パウロは、バルナバとテトスを一緒に連れてエルサレムに上ったとあります。このテトスは、パウロの異邦人伝道で生み出された異邦人クリスチャンである伝道者でした。異邦人伝道によって異邦人クリスチャンが生まれているだけではなくて、異邦人伝道者まで生まれたのでした。この神様の恵みの出来事を具体的に示すために、パウロはテトスを連れて行ったのでしょう。
 パウロは、バルナバとテトスを連れて行くことによって、異邦人伝道において何が起きているのかをエルサレムの教会の人々に伝え、理解を得て、共に一つになってキリストの福音を宣べ伝えていきたい、そう願ったのでした。そしてパウロの伝える福音は、エルサレム教会の指導者たちの認めるところとなったのです。だから、パウロはこの手紙の中で、割礼を受けなければ救われないと主張してガラテヤの教会を惑わしている人々には何の根拠も権威もないということを語ったのです。
 「福音の真理」とはパウロが一時も譲歩せず(5節)、あなたがたの間で、わたしたちの間で常に保たれるためと願ったものです。これがまさにイエス様による救いであり信仰による救いであってほかに何も付け加える必要がないという「福音の真理」です。そしてこれはわたし達の交わりや一致ということにおいても最も大事なものでありこの基礎の上に築き上げるものなのです。
 私たちはいつも「福音の真理」の中に生き、繰り返し、イエス様の元に戻りそこに立ち続けなければなりません。どうか、私たちが常に何も付け加える必要がない「福音の真理」によって整えられ、平安と自由と喜びの中を歩んでまいりましょう。
 『神があがめられる』
ガラテヤ人への手紙 1章18−24節
2012年3月4日(日)

 18節の書き出しに「それから三年後」とあります。三年間、パウロは何をしていたのでしょうか。しかも直前の16節には「人には相談せず」17節には「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず」とありますから、パウロは福音とか信仰ということについての相談せず3年を過ごしたのです。福音による信仰の自立の必要性を知っていたということでしょう。ユダヤ教の伝統やこれまでのやり方を大事にしつつも、それらが持つ危険を知り、それらからしっかりはなれて、福音の恵みをしっかり育て、福音によって自立していったのです。
 しかし人に媚びることを恐れて、人から影響を受けたり、人からなにか強制されたりするのが嫌で、いつもひとりでいようとするだけでもよくありません。パウロが「それから、三年後」エルサレム教会に行って、有力な使徒、ペテロやヤコブに会いに行ったということは、やはり大切なことだったのです。
 そういうパウロの姿を通して「神があがめられる」(24)ということなのではないでしょうか。
私たちもまず福音による信仰の自立、福音の恵みをしっかり育て、福音によって自立することが求められます。そしてそれは孤立ではなく、交わりの中に入って、自分が負わなくてならない自分の十字架を進んで負うということであり、そのように変えられていく姿を通して「神様が崇められる」のです。それこそが私たちの生きる意味であり、使命であり、本当の喜び、心が満たされる源泉となるのです。
 信仰の自立、深い交わりを通して神様が崇められる人生であるならば本当に幸いです。