ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年4月]を短くまとめてのせています。

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 『約束を通して』
ガラテヤ人への手紙 3章15−22節
2012年4月29日(日)

 前回から私たちの信仰の先祖であるアブラハムが例に上げられ律法か、それとも信仰かということを議論させている箇所です。
 15節に「人間のばあいにたとえて」と分かりやすく説明をしようとしています。「契約」と訳されている言葉は新共同訳や口語訳では「遺言」と訳され新改訳の欄外注別訳でも「遺言」と説明されています。「遺言」として読むと、残した人が死んでしまって確定してしまえば、それを取り消したり、その内容を変更したりすることは出来ませんから、それと同じように、神様の約束も、一度為されたのならばその内容を変更することは出来ないということです。
神様はアブラハムと異邦人を含むすべての民族の祝福、信仰によって義とされる、というこの神様の約束の内容は変えようがないと言っているのです。律法は「私達が律法を行うことでは救われないこと」を教えるもので律法によるものではなく信仰によるものだと言うのです。
 今日のタイトルは「約束を通して」としました。約束を必ず守ってくださる真実な神様の「約束を通して」私たちと契約を結び、破棄されず変えられることのない遺言としての救いを与えてくださったのです。
 信仰告白と洗礼において私たちが神様と結んだ契約は、まさに永遠不変の契約なのです。私たちを愛し、救い、永遠の命に与らせようとされる、その変わらない真実な方と、私たちは約束したのです。
 この真実な方の「約束を通して」与えられた平安と恵みの中を歩んでまいりましょう。私たちに約束されている天の御国を目指して、それぞれ遣わされている場で、神様の祝福の中を、御国の民としての使命に歩んでまいりましょう。
  『信仰による祝福』
ガラテヤ人への手紙 3章7−14節
2012年4月22日(日)

 3章に入りパウロが激しくあなたがたは愚かだ、私たちの救いは、私たちの信仰は「律法を行なったからか、それとも信仰をもって聞いたからか」と迫っています。そしてこの箇所では私たちがアブラハムの子孫であるというところから始まります。
 私たちには先祖がいます。先祖は地上の命を与えられるために神様が備えてくださった大切な存在です。しかしその先祖の子孫であるということが、自分がどこに向かい、どのように生きるか、人生にどんな意味があるのか、といった問題を明らかにしてくれるわけではありません。しかし、私たちの信仰の先祖がアブラハムであるということは、私たちの人生の根本を決定付けます。アブラハムの子孫であるということは、神様の祝福を受け継き、救いを頂き、神の国の民とされ、神様に使命を与えられ神様に仕えて生きる者とされたということなのです。
 私たちがアブラハムの子とされ、祝福されるのは、ただ信仰によるのです。律法の行いによって救われようとする者は、祝福どころか、神様の呪い、神様の裁きを受けるしかないことになるのです。そんな私達の為にイエス様が十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架は、律法の行いによって救われようとするのではない全く別の道を指し示します。信仰によって救われる道です。
 パウロは告げます。アブラハムが選ばれたのは、イエス様の十字架の御業のため、異邦人である私たちに救いが及ぶためであったと。新しい神の民とされたキリストの教会と、そこに集う私達クリスチャンは、素晴らしいイエス様の十字架と復活を覚え、聖霊様が共にいてくださる今の自分があることを深く覚え感謝して歩んでまいりましょう。
 『信仰をもって聞いたから』
ガラテヤ人への手紙 3章1−6節
2012年4月15日(日)

 3章冒頭「ああ愚かなガラテヤ人」とパウロは記します。互いの関係が深刻な状態になってしまうかもしれないとても激しい言葉です。激しい言葉の背後にあるガラテヤの人々を福音から離れさせないという激しい思いからのことでしょう。
 そしてパウロは、続けてガラテヤの教会の人々に自分たちが救われた時のことを思い起こさせ、立ち直らせようとして「御霊を受けたのは、律法を行なったからか、信仰をもって聞いたからか」(2)とたたみかけるのです。この御霊を受けたというのは「救いが与えられた」と理解しても良いでしょう。問題は信じて救われたのは「律法を行ったからか」、それとも「信仰をもって聞いたからか」と問うているのです。この答えは明らかでしょう。タイトルの通り「信仰をもって聞いたから」です。これは3節でもありますが5節でも繰り返されています。
 救いも信仰も律法によるのではなく、救いは信仰をもって聞くこと、信仰は福音を聞いて信じることで与えられたのではないですか、というのです。信仰は自分の努力によって完成せず、3節でも5節でも繰り返されている通り「信仰をもって聞いたから」ということに尽きるのです。
 信仰を与えられた私たちは、ただこの十字架に架けられたイエス様を見上げつつ、神様の恵みと憐れみを信じ、主を礼拝し、神様の喜ばれる人生を歩むのです。私達の側のすべきことは神様の語りかけをしっかり聞き続けるということです。そうすれば何が正しいことで何が良いことで、何が喜ばれることなのかが分かり、それを実践する力も与えられるのです。神様の語りかけを聞き続け、十字架にかかりよみがえられたイエス様を信じ、従い、見上げて歩んでまいりましょう。
 『真ん中に立って』
ヨハネの福音書 20章19−23節
2012年4月8日(日)

 イエス様の復活という出来事は、歴史的な事実でありフィクションではありません。しかし、このイエス様の復活は、その意味や自分との関わりがはっきりと分からないと、単なる不可解な出来事であって、ありがたくも、喜びでも、希望でもないのです。
 19節には弟子たちが恐れてじっと部屋の中に閉じこもっていた様子が記されています。ユダヤ人を恐れていたのですが、弟子たちはイエス様を裏切って逃げ出しているわけですから、もしかしたらイエス様を恐れているということもあったかもしれません。この時の弟子たちは、まだ十字架の意味も復活の意味も分かっていませんでした。
 しかし、同じ19節でイエス様は彼らの真ん中に立ち(新共同訳)「平安があなたがたにあるように」といわれました。この言葉は、19、21、26節と三度も繰り返し告げられていますがただの挨拶ではなく「もうあなたがたは恐れなくてもいい」と告げられたのです。
 イエス様を見て喜ぶ弟子たちに向かって「あなたがたを遣わします」(21)と再び召し出し遣わされたのです。弟子たちは裏切りを完全に清算され、新しくイエス様の弟子として生きる者とされた思いだったでしょう。そして、「聖霊を受けなさい」(22)と弟子たちに聖霊を与えられ、そして、遣わされたのです。この日以来、今日もイエス様の弟子たちは罪の赦しを宣べ伝え続けて来たのです。
 復活のイエス様は弟子たちの真ん中に立たれました。今日も、イエス様は聖霊として、私たちのこの礼拝の真ん中に立ってくださり、「平和があるように」「聖霊を受けよ」と告げておられます。イエス様の平安をもって不安や恐れや悲しみに支配されず歩んでまいりましょう。
 『あなたの王が来られる』
ヨハネの福音書 12章12−19節
2012年4月1日(日)

 受難週のメッセージです。イエス様がエルサレムに入られた時の出来事が記されています。11章にあるように、エルサレム入城の直前、イエス様はベタニヤという村でラザロをよみがえらせるという奇跡をなさり、それを見た人々、そしてその話を聞いた人々がイエス様を歓迎しました。それはまた人々の期待はローマを倒してイスラエルを復興させる力の王としてのイエス様でしたが、それは間違っていました。
 またイエス様に反対する人々も、この出来事によって強い思いが起きました。直前の箇所に「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した」とあります。死人の中からよみがえったラザロとよみがえらせたイエス様を殺せば、祭司長たちはこのラザロの復活という出来事そのものを無かったことに出来ると考えたからでしょう。
 人々の間違った期待、また祭司長たちの殺そうとする企てをよくご存知でエルサレムへと入られました。それは、このことが神様の御心から出たものであり、このことのために御自身が来られたからです。神様の御心に従うというのがイエス様の歩みのすべてだったのです。
 今日のタイトルは「あなたの王が来られる」としました。この王が来られる、私たちの心に来られた、というのですから、私たちは迎えなければなりません。しかも、力の王、破壊の王という誤解ではなく平和の王、ろばの子に乗られる愛の王、としてそして十字架にかかって下さった救い主として迎え入れましょう。ろばの子に乗った平和の王をわたしの王として迎え入れるとは、神様の御心に従うということです。あなたの王を、私の王を迎え、十字架の恵み、救い主の愛を受け入れ神様に従って歩んで参りましょう。