ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年5月]を短くまとめてのせています。

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『聖霊に満たされて』   <ペンテコステ>
使徒の働き 1章12節−2章13節
2012年5月27日(日)

 ペンテコステの出来事は、偶然に、気まぐれに起こったわけではありません。イエス様の十字架・復活・昇天の救いの出来事に続く、神様の救いの御業として、ペンテコステは必然的な出来事だったのです。それはイエス様の救いが復活をその肉眼で見た人だけのことではなく、全人類の為だからです。
 弟子達が待っている姿が今日読んでいただいた1:12から記されています。14節には「みな心を合わせ、祈りに専念していた」とあります。使徒たちは、他の弟子たちと共に、心を合わせ熱心に祈りつつ待ったのです。そしてただじっとして待っていただけではなく一人欠けた使徒に加えました。私たちの教会はここ数年、救われる方が起こされるように、一人一人の信仰が成長するように、そして新しい教会を生み出すことができるようにとヴィジョンを掲げています。これは神様の救いの御業の継続のために私たちがなすべきこととして与えられていることです。私達も心あわせて祈り、イエス様の再臨を待ち望みつつ、なすべきことにしっかりと取り組みながら歩んでまいりたいと思います。
 タイトルを「聖霊に満たされて」としました。聖霊は今日も豊かに働き続けておられます。そして聖霊が注がれ、聖霊にみなされる方が起こされ続けています。ペンテコステの日に弟子たちに注がれた聖霊が、今、私たちにも注がれていることを覚えて感謝しましょう。
ペンテコステに始まったイエス様の名による救いの御業が、二千年にわたって継続してきたこと、そして今も、これからも、イエス様が再び来られるまで続いていく、その為に自分たちは今、召されているということを覚え、今週も歩んでまいりましょう。
  『神に知られているのに』
ガラテヤ人への手紙 4章8−11節
2012年5月20日(日)

 私たちはイエス様と出会い、聖霊が住んでくださり、信仰を頂き、洗礼を受け、クリスチャンとなり、新しく生きる者とされました。それは瞬間だけではなく、その時の喜びを生涯保ち続け、どんな時でもイエス様との生き生きした交わりの中に生き続けることが素晴らしいのです。
 しかしそれは決して簡単ではありません。いつの間にか、自分がクリスチャンであることが当たり前となり、信仰の実感というか手ごたえというかそういったものが感じられなくなってしまうことがあります。しかし、それは誘惑の時なのではないでしょうか。いつの間にか信仰を自分の力で支え、何とか出来ると思い始めるのです。
 それは神を知っているという思いからなのかもしれませんが、大事なことは、私は神様に知られている、神様は私以上に私のすべてを知っておられ、その上で一切の罪を赦し、救ってくださったということです。私が神様を知っているかどうか、私がイエス様をどう実感しているかよりもっともっと重大なこと、それが自分が神様に知られているということなのです。神様に知られ、愛され、召されているということだけで十分なのではないでしょうか。その上で今自分ができることを精一杯、主に応答するのです。
 パウロは、ガラテヤの人々がイエス様の福音と出会い、神様に知られているという恵みの中に生きる者となったのだから、そこに留まって欲しい、そこに生き続けて欲しい、最後までどのように歩み通して欲しい、そう語りました。それは私たちへのメッセージでもあります。
 私たちは繰り返し、「神様に知られている」と心に刻み、いつも神様の心を求め、喜んで従って歩んでまいりましょう。
 『神の相続人』
ガラテヤ人への手紙 4章1−7節
2012年5月13日(日)

 前回の箇所の最後に書かれた「神の相続人」というのが先週の「神の子ども」に続く今回のテーマです。「神の相続人」ということは「神様の良きものすべてを相続する人」と言ってもういいでしょう。
 さて、7節には2種類の人間関係が記されます。
 一つは「主人と奴隷」です。それは能力によって評価されるという関係です。律法を守れていると思っているうちは自分の業績に安心して傲慢になり、守れていなければ神に見捨てられているという恐れが支配しています。世の中は、実績や成果や試験等の合否によって判断されますがまさにこの関係です。
 二つ目は「親子」の関係です。親子の関係は行いが基準ではありません。子どもがどうであっても親は愛によって親であることをやめません。親にとっては実績や成果、試験の合否と関係なく子どもであり、子どもはこのような親の元で平安を得ます。それが私たちの信仰生活であり、こういう信仰をイエス様が与えてくださいました。そして神の子どもこそが神の相続人なのだというのです。
 イエス様が来られる前は「この世の幼稚な教えの下に奴隷」となっていましたがイエス様が来られ「父の定めた日」(4節)が来たことで、私たちそれぞれが、奴隷なのか、そうでなくて実は素晴らしい財産を受け継ぐ相続人なのかがはっきりとしたのです。私たちは神の相続人です。神の相続人として、神の子どもとされ、罪が赦され、永遠の命が与えられ、愛、平安、喜びを受け継ぐ者とされたことを覚え感謝しましょう。ただイエス様を信じる信仰によって、父なる神様の持つ良きものすべてを相続する恵みの中に歩んでまいりましょう。
 『神の子ども』
ガラテヤ人への手紙 3章23−29節
2012年5月6日(日)

 イエス様が来られ、ただ信仰によって救われるという福音が私たちに与えられました。では律法についてはどう考えたら良いのでしょう。パウロは律法を養育係にたとえて語ります。養育係は子供が成人すればその役目は終わります。それと同じように、律法による監視は必要なくなったと言うのです。
 26-29節はガラテヤ人への手紙の頂点だと言っても良いでしょう。イエス様の救いに与った者、即ちキリスト者とは一体いかなる者であるのか、いかなる恵みに与っているのか、そのことが記されています。
 クリスチャンは「信仰によって、神の子ども」(26)だと言い、また「キリストをその身に着た」(27)と言います。私達は「神の子ども」だと聖書は言います。しかし私たちの現実はどうでしょうか。家族や友人から「それでも神の子か」と言われることを恐れていないでしょうか。自分自身の中に神の子どもらしさを発見しようとすることは、結局自分の努力と行いで救われるという考えにすぎません。そうではなく、「キリストをその身に着た」(27節)とあるように、まるで民族衣装を着たかのように、キリストをその身に着る時、私たちはその国の人に似る者へ、キリストに似る者へと変えられていくのです。
 パウロはガラテヤのクリスチャン達に、そしてここに集う一人一人に26節「あなたがたはみな、神の子ども」、27節「あなたがたはみな、キリストをその身に着た」と語ります。信じ、信仰のしるしとしてバプテスマを受け、キリストを身に着ること、神の子どもとされることが何より大事なのです。「神の子ども」とされていることを感謝し、イエス様を信じて歩んで参りましょう。