ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年6月]を短くまとめてのせています。

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 <オープンチャーチ>『心をいやす方』
マタイの福音書 11章28節
2012年6月24日(日)

 現代は、心の時代などと言われて、心の問題に大きな関心が高まっています。人間の心とは、不思議なものです。わかったようで、良くわからないのが、人の心なのかもしれません。
 WHO世界保健機関でも1999年にその前文を変えて「霊的-スピリチュアル」の健康というコンセプトを入れることを検討しているという報道がなされて話題となりました。霊性、霊的な部分、スピリチュアルという言葉を魂と言ってもいいでしょう。ですからもっと平易な言葉で言えば、人間は体と心と、魂があるということです。
 今日のタイトルは「心をいやす方」としました。神様は、奇跡によって肉体を回復させ、また心と魂をいやすことができるお方、心を癒してくださる方なのです。
もちろん、私達の互いの間でも慰めたり、励ましたり、ある程度できるかもしれません。しかし自分でも他人でもいやせない、解決できない傷をも神様はいやすことができるのです。心と魂の傷をいやすことができるのは、神様の愛です。それではどうしたら、心の傷をいやされて、幸いな生涯を送ることができるのでしょうか。
 心の傷の根本的な原因は、人間が神様から離れていることです。まず神様に立ち返り神様とともに歩む決心をするのです。またキリストが私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪の重荷を負ってくださったことを信じることが大切です。心の傷の源をいやされ、心に平安と感謝に満ちた生涯をご一緒に送ろうではありませんか。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。マタイ11:28
 『愛によって働く信仰』
ガラテヤ人への手紙 5章2−6節
2012年6月17日(日)

 パウロは、自由にされたのだから、自由になりなさいというのです。イエス様によって与えられた自由は、自分が勝ち取ったのではなくいつもこの「与えられた」という自覚が大切です。そうでないと、私たちは再び奴隷になってしまう危険があるのです。私たちは自分勝手の奴隷になってしまわないためにも、神様によって与えられた自由をしっかりと自分のものにして、二度となにものにも支配されないという決意と行動が必要なのではないでしょうか。
 ここでパウロは割礼の問題を取り上げます。ユダヤ人にとって、割礼は神に選ばれているということの誇りであり、律法を守っていることの象徴でもありました。だからイエス様の恵みによって救われるということに、「割礼」を補って完成させる、「割礼」が必要だと考える人は、律法全体を守る義務がある、とパウロはいうのです。
 だからパウロは6節で「割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」というのです。この言葉を新共同訳では「愛の実践を伴う信仰」と訳していますが、どこか愛の実践の伴わない信仰では、本当の信仰ではないということに聞いてしまいそうです。そうなると、信仰までもひとつのわざ、人間の行いになってしまうかもしれません。ここはまず「信仰」が大事であり本物の信仰は愛を生み出す信仰なのだということです。
 「愛によって働く信仰だけが大事」というのは「私達がしなければ」ということではなく「信仰が」働くことが大事なのです。義をいただく望みを熱心に抱き、神様の約束に信頼し、愛によって働く信仰だけを大事に歩んでまいりましょう。
 『自由を得させるために』
ガラテヤ人への手紙 4章21節−5章1節
2012年6月10日(日)

 パウロは、イシュマエルを女奴隷から生まれた子、肉によって生まれた子と言い、イサクを自由の女から生まれた子、約束によって生まれた子と言って、対比しています。イシュマエルはシナイ山に由来する契約、つまりこれは十戒を意味し、そして地上のエルサレムを意味しています。一方イサクはイエス様による新しい契約、そして天上のエルサレム、霊的な約束の御国を意味していると解釈するのです。
 つまり、アブラハムの子孫であるというだけでは、アブラハムの祝福を受け継ぐとは限らず、イシュマエルは奴隷の子であり、肉によって生まれた律法主義のユダヤ人を表し、イサクは自由の子であり、霊によって生まれたキリスト者を表していると解釈して説明するのです。
 29節に「迫害した」と出てきます。イシュマエルはイサクをからかっているとのサラの訴えによって、はアブラハムのもとから去らされてしまいました。パウロはこの出来事を「迫害」とたとえ、今も同じくユダヤ教の教会迫害や、信じるだけでは救われないというユダヤ主義の問題を語っていると考えて良いでしょう。私たちクリスチャンの福音による自由に対して、迫害、すなわち「ねばならない」という攻撃が常にあります。しかし、私たちがこれを捨ててしまえば、私たちが救われたということ自体が無意味になってしまうのです。
 イエス様は自由を得させるために、すでに十字架で私たちを解放してくださったのです。このことをしっかり受け止めて、自由をしっかりと握り締めて歩んでまいりましょう。この与えられた自由から奴隷にもどってなりません。むしろこの自由の喜びに支えられ、神の子とされる自由を隣人に証しする使命に歩んでまいりましょう。
 『あの喜びは今どこに』
ガラテヤ人への手紙 4章12節−20節
2012年6月3日(日)

 ガラテヤの人々は、パウロの伝える福音によって救われましたが、律法も守らなければ救われないという教えを吹き込まれ、イエス様を信じるだけでは不十分だと思い始めたのです。パウロは、そのように信仰のあり方が変わってしまったガラテヤの教会の人々を、何とかして「信仰によってのみ救われる」という福音の原点に引き戻すために、この手紙を書いています。
 今日の箇所を読むとその信仰の本質に立ち返らせるために情熱をもって書いていることが分かりますが、その中でパウロは「あの喜びは今どこに」と投げかけます。
 パウロは福音に立ち返るように、キリストにあって自由に生きるように、本当の喜びの中に生きるように、熱心でした。イエス様を単純に信じ、すべてから解放され、私たちを造られた神様の子どもになるということ以上に喜びに満たされることはないでしょう。
 その神様が私たちのことをすべて知っていてくださるという安心感、私たちがどのように生きたら良いのかという確信、何のために生きるのかと言うことに対する明確な答えが与えられるという充実感、これがイエス様を信じて生きることの喜びです。
私たちはプライドや義務感や不安、悲しみ、罪責感、心の傷、不満、そういったものから開放される、それがまさに「あの喜び」なのです。
 パウロが熱心に示したように、ただ神様の力に信頼し、神様のために生きる者となる。これほどに喜びに満ちた生き方はありません。どうぞ「あの喜びは今どこに」とならないようにいつでも本当の喜びの中に歩ませていただきましょう。