ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年7月]を短くまとめてのせています。

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 『喜びが全きものとなるため』
ヨハネの手紙第一 1章1節−4節
2012年7月29日(日)

 これからしばらくヨハネの手紙を読んでまいりたいと思います。ヨハネはどのような目的のためにこの手紙を執筆したのでしょうか。
 3節に「御父および御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるため」とあります。ヨハネは、父なる神との交わり、イエス様との交わりの素晴らしさを経験し味わいました。人間は、本来神様に創造され、神様との親しい交わりと関係があったのですが、罪の故に、神様との交わりは完全に途絶えました。しかし神様の方からその交わりの回復の為イエス様を誕生させ、救いの道を備えてくださったのです。
 もう一つの目的を私たちの喜びが全きものとなるため(4節)であるとヨハネは記しています。イエス様を心に迎え、信仰により歩むとき、罪が赦され、神様との幸いな関係が回復され、喜びが私たちの内に満ち溢れるのです。
 私たちを愛し、私たちのために独り子のイエス様さえ惜しまず与えてくださるほど、愛を注いでくださったのです。このお方を愛して歩むことほどにすばらしい人生はありません。「喜びが全きものとなるため」に大切なことは、神様との交わりを回復することです。
 どんなにお金がたくさんあっても、環境がどれほど整っていたとしても、感謝できなければ、喜びは感じられません。私たちがイエス様を信じ受け入れ、神様と共に歩み続ける中で、喜びが心に溢れ、完全なものになっていくのです。愛されている、受け入れられていると思えるときに、喜びがあります。生きる意味と使命をもっていなければ、喜びは感じられないでしょう。礼拝や賛美、祈り、交わりを通して、神様と共に、イエス様と共に、全き喜びの人生を、歩んでまいりましょう。
  『十字架が誇り』
ガラテヤ人への手紙 6章11節−18節
2012年7月22日(日)

 ガラテヤ人への手紙の最終回です。パウロは最後に自筆で大きな文字で、この手紙まとめて、こういいます。「大事なのは新しい創造です。」(15)「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから。」(17)そして、「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。」(14)と言い切ります。
 パウロは、律法を守らなければ救われないと言う人々は、自分を誇り、人から良く思われたいと思っているだけだと言うのです。イエス様の救いを頂くには、誇れるものは何一つ無いことを知らされ、十字架の血潮によってのみ救われたということを知らされます。だから、ただ十字架だけを誇りとするのです。これ以外のものを誇りとする時、一途さを失い、旧約聖書に数え切れず出てくる偶像礼拝の罪に陥るのです。そしてそれはイエス様の十字架を無駄にすることでもあるのです。この一途さを失えば、私たちの信仰は熱を失い、力を失い、喜びを失ってしまいます。人に良く思われたい、自分を評価されたいから目に見えるものを誇る、ということでは、神様以外のものを頼り、誇ることですから、律法主義者と同じであり、神様がもっとも嫌われる偶像礼拝とすらなってしまうということです。
 改めてこれらの御言葉をしっかり心に刻みたいと思うのです。そして、私たちもパウロのように、イエス様の十字架によって新しくされた者として、キリストの焼き印を身に受けた者として、イエス様の十字架のみを誇りとして、歩んでまいりたいと心から願います。
 共に励ましあい、主イエスの恵みに支えられて、ただ十字架を誇りとする人生を歩んでまいりましょう。
  『御霊の人』
ガラテヤ人への手紙 6章1節−10節
2012年7月15日(日)

 教会は、「悪いことはやめ、善いことをしましょう」という集まりであるように思われます。しかしそれは教会でなくても、いいのです。確かに、教会においても「悪いことはやめ、善いことをしましょう」ということを勧められるのですが、実はその「善いこと」と「悪いこと」の基準が、この世の常識とは大きく違っているのです。
 パウロは「御霊の人であるあなたがたは」と言います。この箇所では罪ある人がどのように悔い改めなければならないかではなく、「御霊の人」として歩むべき私たち一人一人のあり方が問われています。
 あなたが御霊の人であるか肉の人であるかは、自分の隣人の過ちや欠点に対してどういう態度をとり、どういう対処をするのか、そこにおいてあなたの御霊の人としての実質が問われると聖書は語るのです。
 もし「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、」を起こすならば、肉の性質を持つ人です。たとえば犯した罪を取りざたして責め立てるという態度です。他人があやまちを犯したことで自分がよいことしたということには決してなりません。
 1節では「柔和な心でその人を正して上げなさい」とあります。短気になって怒り、切り捨てるようなことではなく、忍耐をもってもとの状態に回復させるような愛の行為です。9節では「善を行なうのに飽いてはいけません」とあります。「御霊の人」の集まりは、柔和な心で欠けを補い合うのです。5節には「めいめいが自分の重荷を担うべきです」ともあります。これらの最善の見本はイエス様の歩みです。御霊の人である私達は、自分の十字架を負いつつ、私だけでは負うことができない重荷を互いに負いあうという信仰人生を歩み続けて参りましょう。
  『御霊に導かれて』
ガラテヤ人への手紙 5章16節−26節
2012年7月8日(日)

 ガラテヤ書は「信仰義認」がテーマです。その中で少し前から自由というのがテーマになっています。パウロはどんなに誤解される危険があろうと「洗礼を受けてキリストのものとされたあなたがたは自由」と言います。創世記に人間が創造された時に「神様のかたち」(創1:27)とでてきます。「神様のかたち」には様々な説明がされますが、一つの意味は「自由をもつ存在として人間をお造りになった」ということです。
 人間は背こうと思ったら背けるけれども、神様に従うという生き方を人間だけにはできるのです。そういう意味で私たちがイエス様によって救われているということは、動物のように本能ではなく、本来の人間らしく生きる道を回復してくださったということです。自分の願いに逆らって、神様に喜ばれることを選び取っていくことが「信仰による自由」です。しかしそれは、困難さを覚えるのです。
 だからパウロは「御霊によって歩みなさい」「御霊に導かれて、進もう」というのです。「御霊によって」、「御霊に導かれて」歩むとは聖書を通して聖霊というガイドに導かれて歩むということです。
 そうすればすべての人が避けたいと願う「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、」から遠ざかることができます。そしてすべての人が得たいと願う「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶ人生を獲得できます。努力や律法では得られない、御霊によって生きる人生、御霊に導かれて進む私たちの歩みなのです。
 御霊の与えて下さる自由の中で、喜んで神様に従い、御霊の実を結んでまいりましょう。
 『自由と愛』
ガラテヤ人への手紙 5章7節−15節
2012年7月1日(日)

 パウロは、「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(13節)と言います。
クリスチャンはイエス様以外に主人を持たない完全な自由を与えられた存在です。しかし、その自由を自分の欲を満たすために用いるのではなく、神様に仕え、隣人に仕えるために用いるようにと聖書は言います。
 私たちは、神様の御支配の中に生きることを良しとせず、神様の御心よりも自分の計画や願い、自分の欲に引きずられてしまい者です。しかし神様の言葉に従って生きていこうとする思いを与えてくださるのは聖霊なる神様です。聖霊なる神様の助けの中にある信仰によって、すべてのことはしてもよい(Tコリント10:23)自由、そして愛を持って仕える僕となる自由を持っているのです。
 この自由と愛の歩みは、サタンの支配するこの世に対しても力があります。神様を礼拝する者へと人々を導き、その愛の交わりを拡大していくのです。その愛の交わりとは、各々の家庭であり、地域であり、そしてこの教会です。そのためには、何よりまず私たち一人一人が愛を持って仕え合うことの喜びの中に生きることが大切なのでしょう。
 私たちは、イエス様がいつもいてくださるようにと気をつけながら、世の交わりにも関わり、私たちを通してイエス様の愛が伝わり、新しくする、神様に喜ばれる者として召されています。私たちが遣わされているそれぞれの場所で、自由の中で愛を持って喜んで仕える者が起こされていくのです。聖霊なる神様の導きの中で、そのような証人として歩んでまいりましょう。