ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年8月]を短くまとめてのせています。

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  『神のみこころを行なう者』
ヨハネの手紙第一 2章12節−17節
2012年8月26日(日)

 兄弟を憎み、闇の中にいることのないように、もう一度イエス様の愛によって救われている事の確認を迫っているのがこの個所です。
 前半では、子供たち、父たち、若い者たち、小さい者たちと語りかけながら、信仰の長短に関係なく、また老若男女という年齢性別に関係なく、あなたの信じている事は何か、信仰の基本を確認させようとしているのです。信仰の基本とは「私は罪人であった」という事を認め、イエス様の名によって罪が赦された存在であるということです。創造者であり初めからおられる方を、すでに知った者であり、神のみことばをうちにとどめる強い者、悪い者に打ち勝った者であるということです。
 信じた一人一人が、「私のために初めからおられる方が罪赦されるための計画をし、また実行してくださったのだから、罪の赦しと、さらには、これから罪に打ち勝つ力も、いただいている」と確認したいのです。
 後半は「この世を愛してはならない」と言って始まります。聖書の「世を本当に愛していないだろうか」という問い掛けに真摯に向き合う必要があるでしょう。この世とは何か、もっと具体的には16節で言っている「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たもの」に対して「愛していないだろうか」と問う必要があります。
 それに続けて「神の御心を行なう者は、いつまでもながらえます」といいます。私たちは本気で信じ、愛し、従っていくべきは、永遠であり、光である神様であることを繰り返し覚え続け、永遠の命に生きるものとさせていただきましょう。何を愛しているのか、何を愛すべきなのかを確認し、神の御心を行なう者として歩んでまいりましょう。
 『新しい命令として』
ヨハネの手紙第一 2章7節−11節
2012年8月19日(日)

 このタイトルで取り上げています「新しい命令」とは「兄弟を愛しなさい」という命令です。ある人には非常に心が痛み、難しさを覚える、不可能に思える命令かもしれません。しかし、神様は、ヨハネの手紙を通して、私たちに強く勧め続けるのです。
 11節で「兄弟を憎む者は、闇の中を歩んでいる」とヨハネは、述べています。闇の中を歩むとは不安や困難そして危険を伴い、その人自身にとってとても悪いことです。私たちがそういった問題から解放されること、人を憎むことから解放されることを願ってヨハネは書いたのです。憎しみから解放されるには神様の愛に満たされる必要があります。愛と憎しみは、同じ心に同居することができませんから神様の愛、に満たされる時、憎しみは私たちの心から追い出され去っていくのです。
 十字架にこそ、神様の愛が溢れるのです。イエス様の十字架の故に、私達を光の中を歩むように導いてくださいます。
 10節に「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがない」とあります。命令は守るべきであって、破れば罰則があります。しかし神様の命令は破れば罰則というよりも、守れば祝福と言う要素が多分にあります。兄弟を愛するものは、光の中に留まり、神様の子どもとして歩めるのだというのです。
 時代は悪いかもしれません。だからこそ愛が必要とされ、主に従う者の愛の実践が一層求められるのです。私たちは光の中を、愛を持って歩み、神様に愛されている者として、憎しみから解放され、私たちの周りにいる「兄弟」を愛し、光の中にとどまって、御言葉に従って愛を実践しそれを広げてまいりましょう。
  『弁護してくださる方』
ヨハネの手紙第一 2章1節−6節
2012年8月12日(日)

 ヨハネは、この手紙をいくつかの目的をもって書きました。この箇所にも「あなたがたが罪を犯さないようになるため」と出てきています。
 しかしヨハネがこの手紙を書いて、みんな罪を犯さないようになったというわけにはいきませんでした。今日まで続いてきた罪の歴史をみても分かります。
ある面では強くても、誰しもウィークポイントがあり、神様の目から見たら、弱さがあり罪人なのだということです。私達は全く罪を犯さなくはならない弱さを持っているのです。その現実を受け入れる必要があります。けれども、諦め、開き直り、その欲するままに行動するなら、神の子とされた者の歩みとはいえません。光の中を歩む者とされた私達は、それに相応しい歩みが求められているからです。
 私たちも、聖書を読み、祈り、十分気をつけて生活しなければなりません。本来的にクリスチャンは罪を犯さないようになるべきです。しかし罪を犯してしまった場合真摯に受け止め、罪の問題に悩みながらも、私たちの罪だけでなく全世界のためのなだめの供え物となって下さったイエス様を見上げる事が大事です。
 そして私たちを「弁護してくださる方」が、イエス様であることを覚え感謝しましょう。結局イエス様の恵みと助けが不可欠なのです。私たちが罪を犯さないようになるため、私たちが勝利の生活を歩むためには、弁護者なる主キリストを見上げて生活することが大切なのです。イエス様が私たちの弁護者であるということをしっかり覚え、それをいつも確信し、実感してまいりましょう。イエス様により頼み、イエス様から目を離さず、イエス様から離れず歩んでまいりましょう。
  『罪の赦し』
ヨハネの手紙第一 1章5節−10節
2012年8月5日(日)

 私たちは罪の世界に生き、罪の性質を今なお持ちながら信仰者として「喜びが全きものとなるため」(前回タイトル)に生きようとしています。罪意識を持ち続け、罪に対して敏感であることはとても大切です。しかし、ただ罪の責め苦だけを感じ続けて疲れ果ててしまうことはみこころではありません。正しく信仰に歩む必要があるのです。
 神様は、私たちの弱さの全てをご存知の上で、キリストを十字架にかけ、殺し、私たちの罪の身代わりとして下さいました。そのことをヨハネは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」あるいは「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」と記しています。このイエス様の流された血の効力は、過去のものではなく、今もあるのです。
 私達は完全に赦されたのです。そして赦されているのです。私達は高慢にならないために自分の罪に嘆き、弱さに打ちのめされる事も必要です。けれどもイエス様の尊い血によって罪赦され、救われている私達は、悲嘆に暮れて続けてはなりません。イエス様が、そういう私のためにも死んで身代わりとなってくださり、完全に罪を贖ってくださったこと、その愛と哀れみに対して感謝へと導かれなくてはならないのです。
 自分の罪の大きさと、またそれに対する赦しの大きさも覚えて、感謝のある信仰生活を送らせて頂くことが最も大切なことなのです。私達は、神の子とされた事の特権に感謝し、神の子として神様と交わる事をもっと深めていこうではありませんか。イエス様の十字架の贖いを心から神様に感謝し、喜んでこの方に従って参りましょう。