ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年10月]を短くまとめてのせています。

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  墓地礼拝『ここに愛がある』
ヨハネの手紙第一 4章7節−10節
2012年10月28日(日)

 神の子とされた私達は、それに相応しい歩みをしているのでしょうか。それをヨハネが兄弟同士との関係において勧めているのが今日の個所です。ヨハネはまず7節で「私達は、互いに愛し合いましょう」と言います。
 愛は神様から出てきて、それが兄弟姉妹の内に入り、やがてあふれて、外に出ていくのです。神様から愛が出て、私たちクリスチャンを満たし、それが、兄弟姉妹へ、更に周りの人へと広がっていくのです。
 ではその神様から出た愛とは何を指しているでしょうか。最も分かりやすく大事な出来事、それは神の御子であるイエス様が身をもって、十字架の死によって、私達にその神の愛を示して下さったということです。そのことを一言で表すと、10節です。この「愛」の順番は非常に大切です。神様のほうが先に私たちを愛し、私達の供え物としての御子をお遣わしになったのでした。
 私たちがこの愛を知り受け入れたからといって、何の心配もなくなり、常に平穏無事かと言うと、そうではなく、さまざまな試練に遭遇し、落ち込む時もあり、もがくこともあるでしょう。しかし、結局のところ、ヨハネが、「ここに愛があるのです」という、その場所、すなわち身代わりの十字架の恵みに戻るまでは、平安を取り戻す事は出来ません。
 皆さんもまた、この愛をいつも思い出し、そして、今も変わらずに神様に愛されている事を確認し、イエス様の歩まれた道を、歩ませていただきましょう。そしてそこに留まっていないで、それと同じくらい、大切な「私たちは、互いに愛し合いましょう」と言う御ことばに従って歩み続けてまいりましょう。
  『真理の霊』
ヨハネの手紙第一 4章1節−6節
2012年10月21日(日)

 4章は「霊だからといって、みな信じてはいけません」といって始まります。ヨハネは、これまでにも反対者、反キリストについて書いて来ました(2:18-26など)。パウロが書いた手紙にも、その事が十分に伺えます。キリスト教会は初期において様々な間違った教えたくさん出てきていたのでした。
 しかし偽教師、偽預言者についてはヨハネの時代だけでなく、旧約時代にもすでにいたのです、そして今の時代でも。現代日本でも、教会は多くはありませんがあちこちに、それなりの数があります。その教会が全部、聖書の教えに立っているかと言いますと現実はそうではなく、恐ろしい事ですが、気をつけなくてはいけません。それこそ、「それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい」とヨハネが言っていますように、一人ひとりが試してみるべきなのです。
 神から出た者と、この世から出た者とが、何時の時代でも交じり合っていて、気をつけないと、この世のものに引き込まれてしまいます。少なからぬこの世の影響を受けやすい環境に置かれています。
 反キリスト、悪霊、サタンなどクリスチャンを惑わし、罪に引き込む目に見えない存在はあり確かに活発に活動しています。しかし、恐れることはありません。私たちはすでに神から出ていない霊に勝っているし、聖霊によって神から出たものか、そうでないかを聞き分ける性質も持っています。私たちは神から出た者、神の子どもだからです。
 私たちは注意しながらもそれらを恐れず、そういう人々を憎まずに、見分けながら、祈りとみことばによって、イエス様に従って、聖霊様に助けていただいて歩みつつ成長させていただきましょう。
  『神もまたその人のうちに』
ヨハネの手紙第一 3章21節−24節
2012年10月14日(日)

 3章では、私たちは「神から生まれたもの」として歩んでいる、というテーマで書かれていました。だからこそ愛を実践するのですが、その結果として、素直にかつ信頼をもって「大胆に神の御前に出ることができ」るようになるというのです。
 この「大胆に」と言う言葉は「自由な発言」というニュアンスがあり、神様に祈る自由があるということを意味しています。さらに「求めるものは何でも神からいただくことができ」るという確信にまで至ることができるというのです。神様を信じ、イエス様の救いに預かっているクリスチャンは、神の子どもとされ、そして愛の実践を通して、平安と確信をいただくことができる。その結果、神様の前に出ることができ、自由に祈ることができる特権が与えられているということです。神の子とされた信仰者には、すばらしい祈りの特権があるのです。
 私たちの人生には、心配なこと、問題課題が次々とやってきます。しかしほとんどすべての心配や問題は、分かち合うことで軽減できます。それが神様であれば心強いことです。神様はすべての心配や問題の解決を持っておられるからです。つまり、神様に祈れること「大胆に神の御前に出る」ことができるのは、大きな特権なのです。
 祈りが聞き入れられるとの確信を揺がないものにする条件は「私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ,キリストが命じられたとおりに,私たちが互いに愛し合う」という「神の命令を守り,神に喜ばれることを行なっている」ことです。「神もまたその人のうちに」とのみことばに信頼し、神様に祈れる特権を感謝し、大胆に神様の御前に出て、求めるものは何でも与えてくださる神様に期待して、歩んでまいりましょう。
  『行ないと真実をもって』
ヨハネの手紙第一 3章13節−20節
2012年10月7日(日)

 ヨハネの手紙には非常に多くの「愛」という言葉が出てきます。「行ないと真実をもって」というタイトルですが、この箇所でも、「行ないと真実をもって、愛そう」ということがテーマです。
 18節に「ことばや口先だけで愛する」と出てきます。これが私達人間の愛なのかもしれません。しかし、神様の愛は行ないと真実を伴います。つまり、兄弟姉妹の必要のために具体的に行動し、犠牲を払い、報いを求めないのが、愛なのです。その模範が私たちのためにいのちを捨てたイエス様です。
 ヨハネは、神の愛を体験した信仰者が、愛を実践するように勧告しています。16節の後半には、「兄弟のために、いのちを捨てるべきです」とありました。実際にいのちを捨てなければならないようなこともないとはいえませんが、ヨハネが、ここで述べているのは、「愛を実践するように」ということです。愛するとは、相手の益のために犠牲を払うことでその内容は様々です。偉大なこと、壮大な計画でなくてもいいのです。イエス様を思い、まさに隣人を愛する、身近な人の益のために犠牲を払う、相手のために労苦する「愛の実践」から始め、継続し広めていくことが私達にも出来るのです。
 19節では、愛を実践することは、真理に属し、安らかにされることだと書かれています。愛を実践することこそ、最も平安で、幸いな生涯なのです。行ないと真実をもって愛する者に、神様は神の子である確信を強め、心の安らぎと祝福が与えられるのです。
 神の子とされたことに感謝すると共に、兄弟を「行ないと真実をもって」愛し、神様の子どもに相応しく歩んでまいりましょう。