ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年11月]を短くまとめてのせています。

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   『あかし』
ヨハネの手紙第一 5章6節−12節
2012年11月25日(日)

 この箇所には「あかし」という言葉が8回も出てきます。「あかし」は、元来裁判用語で「証言」で、判決を下すという重要な要素です。
 7節に「あかしするものが三つあります」と言い8節で「御霊と水と血」だといいます。使徒の働きに記されている聖霊降臨の事実、そしてイエス様のバプテスマ(水)と十字架(血)という歴史的事実とが全く一致して、イエス様は神の子、キリストであると「あかし」しているのです。しかも偽者の可能性のある人間の「あかし」ではなく神様の「あかし」であると言うのです。まさに神様が歴史の中で、水と血において、御子イエス様について「あかし」をしておられ、御霊によって、私達信仰者にイエス様は神の子であり、キリストであると「あかし」し続けておられるのです。
 10節で「神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています」とあります。私達はこの「あかし」を確認しまた「あかし」するものとされています。私達は単に「あかし」するだけではなく、「あかし」できるようにされた私たちの幸いにも目を向けましょう。
私達は御言葉と御霊の導きによって永遠の命を頂きました。御子を持つ者とされています。その幸いを覚えつつ、「あかし」する者としてここから遣わされて行こうではありませんか。
 神様がイエス様について「あかし」されたことほど確かな「あかし」はありません。私たちの「あかし」の言葉がどんなに貧しくとも、主がそれを助け用いてくださるのです。勇気をもって、永遠の命を頂いている者として「あかし」させていただき、益々「あかし」し続けてまいりましょう。
  『世に勝つ者』
ヨハネの手紙第一 5章1節−5節
2012年11月18日(日)

 神様が私達罪人をどのように愛してくださったか、そして今もどのように愛して下さっているのか、その事を絶えず確認しながら歩まなければ、本来なら喜びであるはずなのに、重荷となる、苦痛となる、そういった間違った受け止め方になってしまいます。
 2節、3節では、「命令を守る」という言い方で神を愛する事をあらわしています。そして「その命令は重荷とはならない」とあるのです。私たちが神様を愛する根拠は充分に示されています。まず神様が私たちを愛してくださったという事実、そのことが明確に、痛々しいほどに現れるイエス様の十字架です。そのような神様の愛に応答しようとするとき、「命令は重荷とはならない」とは、その命令であったものが、命令ではなくなり、それを守らない事のほうが何か足りないようなことになるのではないでしょうか。
 また命令が重荷とはならない理由を4節でも述べています。私達は敗北者ではなく、世に打ち勝った勝利なのです。「世」とは、私たちを神様から引き離す全てのもの、神様に逆らう全ての力で、戦わなければならないのです。しかし、神様と共に歩む者にとって、最終的な敗北はないのです。どんな事があっても忘れてはならないのは、必ず私たちは勝利すると言う事です。
 ですから、もっともっとそのような歩み、「世に勝つ者」としての歩み、勝利者らしい歩みをしてもいいのではないでしょうか。神様の素晴らしい祝福が用意されているのです。そして神様の喜びをいただく事ができるのです。神さまのご命令に喜んで従う「世に勝つ者」として、益々力強く歩んでまいりましょう。
  『愛には恐れがありません』
ヨハネの手紙第一 4章17節−21節
2012年11月11日(日)

 前回は「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」こととその証拠、そして私達はこの証拠を持っているのだとお話しました。17節は「このことによって」と始まりますが、「このこと」とは「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」ことを指します。つまり、人が神のうちにおり、神もその人のうちにおられれば、その人の上に神の愛が完成すると、ヨハネは言うのです。
 神様の愛が全うされている者の姿について「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(18節)と記されています。反対に言えば恐れがあるかどうかによって神様の愛が全うされているかどうか、その愛が、本物かどうかが試されるということでもあります。
 20節で「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」とあります。言われてみればその通りです。しかし、自分の思うように動かない相手、価値観が違う、相性が合わないそのような相手を赦し愛せるかと言うと、難しいのです。しかし、そこで終わってはいけません。何度でも、私達は神の愛というものを、真剣に思い起こし、考えてみようではありませんか。
 イエス様を救い主と信じている皆さんは、すでに信仰告白し、聖霊の働きを知り、そして神様の愛を受け取っています。ですから、人や神を恐れることなく、人を愛することができるのです。恐れがあり、愛が足りないと思われるなら何度でもイエス様の、そして神様の深い愛を思い起こし神様のうちを歩みましょう。そして、イエス様が愛したように、私たちも兄弟姉妹も愛し合い続け、あらゆる恐れから遠ざかり守られて歩んでまいりましょう。
  『神もその人のうちに』
ヨハネの手紙第一 4章11節−16節
2012年11月4日(日)

 13節から16節までを注意深く読みますと、「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」と言うことばは、繰り返し書かれています。ヨハネが好む言い方でこの手紙の大切なキーワードでもあります。
 「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」ということの証拠を今日の箇所に見つけることが出来ます。
 13節に「御霊を与えてくださいました」とあります。聖霊が与えられたと知っていることが証拠となります。神様から遣わされたものを受け取るには私たちの能力や経験ではできません。自分のうちに神がいなければ聖霊を知り、感じ、確信することはないのです。
 また15節に「イエスを神の御子と告白する」とあります。これは「イエス様が救い主であり、贖いの十字架と復活を信じる」と、公に言い表すことです。4:2にもありますが、聖霊によらなければ人となって来たイエス様を救い主と告白できないのです。信仰告白は聖霊の働きであり「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」ことの証拠です。
 16節に「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。」とあります。神様の愛を知り信じる人は、神様の愛を受け入れた者は喜びと平安で満たされます。これは「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」ということの証拠です。
 皆さんは自分が神の中にいることを実感していますか。その証拠が今日の箇所から明らかにされました。神の子とされている事を感謝しつつ、「私達が神のうちにおり、神も私達のうちにおられる」ということを重く受け止め、喜びと平安の溢れる神様の喜ばれる道に歩んでまいりましょう。