ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2012年12月]を短くまとめてのせています。

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 『主をほめたたえよ』
詩篇 103編1節−5節
2012年12月30日(日)

 主をほめたたえるようにと、作者は、信仰をもって自分自身を励まし、感謝と賛美に溢れるようにと、自分を鼓舞し励ましています。この詩の作者は表題を見るとダビデであることがわかります。しかしダビデは良いことずくめの人生ではありませんでした。しかし「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」というのです。
 「主が良くしてくださったこと」は、毎日毎日、恵みの水がこんこんと湧き出して、私たちを潤し続けています。そこに心を留めるならばすべてが賛美となり感謝となるのです。ある方に「井戸はくみ出し続けないと枯れてしまう」と言われたのを鮮明に覚えています。賛美し、感謝すればするほど神様の恵みがこんこんと湧きあふれて、私たちを潤し続ける、ということなのではないでしょうか。
 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とありますが「忘れる」ことは「感謝をしない」ことと結びついています。イエス様の十字架の身代わりの死によって救ってくださったことだけでも、考えられないほどの一方的な恵みです。イエス様が私たちのためにしてくださったこと、今もしてくださっていることを忘れると、感謝することから遠ざかり、同時に不平不満がわき起こってくるのです。
 神様は私たちにこの一年、どれほどの恵みと憐れみを豊かに注いでくださったのでしょうか。めぐみを数え、主に栄光を帰し、一年の守りと励ましと、救いの確かさをよろこび、新しい年に向かってわしのように若々しい力といのちを更新していただき、御国をめざして前進しましょう。共に主をほめたたえ、感謝に感謝を加えて新しい年を迎えようではありませんか。
 アドベント4『恵みの上にさらに恵みを』
ヨハネの福音書 1章14節−18節
2012年12月23日(日)

 今年のクリスマスは、暗闇に輝く「光」というテーマでクリスマスを覚えて読んでまいりました。この光は私達にとっての恵みであるということを静かに、重く深く受け止めたいと思います。
 16節に「恵みの上にさらに恵みを受けた」とあります。イエス様の中には、平安・喜び・希望・愛・力・救いといった神様の持つ全ての善きものがあります。それらを全部私たちに与えられたと、聖書は語ります。イエス様を信じる者には、誰一人例外なく、すべての人が今ある恵みの上に、更に恵みを受ける、受け続けているというのが私たちの歩みなのです。
私たちは、光であるイエス様から目をそらして、闇に目を向けてしまうと、不満、不安、嘆きが口から出て来ます。しかし、このイエス様の光に照らし出され、このイエス様を見上げるならば、「恵みの上にさらに恵みを」受けているという事実に気付かされるのです。
 イエス様を見上げて歩み、礼拝し、賛美しながら歩むなら、私たちを覆っていた霧は消え、自分の上に降り注いでいる神様の光、恵みの数々に気付きます。そしてその恵みを数え感謝して歩むなら、私たちの口からは、更なる祈りと賛美が湧いてきます。「恵みの上にさらに恵みを」と聖書は私達を励まします。ですからそれを信じ実際に礼拝と感謝と賛美の生活に変えていくのです。
 今、共々に、私共に注がれているイエス様の恵みを数え上げ、イエス様に感謝の祈りをささげ、共々にイエス様をほめたたえ、イエス様の御降誕をお祝いしたいと思います。この感謝と賛美とをもって、このクリスマスを迎え、神様の恵みに、さらなる恵みに満たされましょう。
 アドベント3 『すべての人を照らすそのまことの光』
ヨハネの福音書 1章9節−13節
2012年12月16日(日)

 この箇所は「まことの光が世に来ようとしていた」と始まります。この「まことの光」とは、主イエス・キリストご自身を指しています。イエス様が光でありイエス様こそが全ての人を照らすのです。暗い、希望のない、喜びのない、不平と不満、不安と恐れとが、明るい、希望と喜び、感謝と平安とに変えることができる、そのような光です。まことの光であるイエス様が来られた以上、私たちはすべてを良きものに変えて下さるイエス様の力と導きと守りを信じ、希望を持ち期待し信じて良いのです。
 12節に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。
受け入れ、この方を信じるなら、神の子となる資格が与えられたのです。この恵みに与ったのが私たちなのです。イエス様と出会い、イエス様を私の主人、私の神として受け入れ、神の子とされました。光の中を、光に向かって歩む者となりました。永遠の命の希望を持って、神の国に向かって歩む者となったのです。この恵みの中に生かされている幸いを、私たちは何とかして証ししていきたいと思うのです。
 イエス様の光は、私達の本来の姿、罪の姿をも教えます。そして、具体的に歩むべき道を示し、行くべき目当てを照らします。すべての人に希望を与え、生きる力と勇気を与えます。イエス様によって照らし出されない人は存在しません。そして照らし出されれば闇は退くのです。イザヤ書60:1には「起きよ。光を放て。」とありますが私たちはイエス様というすでにこの世に来られたまことの光の中を、その光を身に帯びて、歩んでまいりましょう。
アドベント2 『光についてあかしするため』
ヨハネの福音書 1章6節−8節
2012年12月9日(日)

 4つの福音書は、イエス様について語る前に、多かれ少なかれバプテスマのヨハネについて記しています。ルカの福音書などは、イエス様の誕生の物語に先立って、80節もある1章の大半を使ってバプテスマのヨハネの誕生の次第が記されているほどです。どうしてでしょうか。
 各福音書はバプテスマのヨハネを記すことによって、イエス様こそ預言者たちが預言していたまことの救い主であるということを示そうとしたということです。イエス様は、何の前ぶれもなく突然やって来た、というのではなく、何百年も前から預言者たちによって預言され、その通りに、バプテスマのヨハネがイエス様より先に遣わされ道を整えた、ということなのです。それは永遠の神様の救いの御計画の中で誕生され、救いの御業を遂行された方であるという証拠でもあります。
 たとえばバプテスマのヨハネとイエス様の救いを指し示している預言の一つがイザヤ書40章です。記されたのはバビロン捕囚の時代で、イエス様が生まれるより600年ほど前の出来事です。
 旧約聖書に記されている神様の救いの御計画の成就としてイエス様は来られました。イエス様の誕生、そして十字架・復活・昇天の出来事は、天地創造から終末に至る神様の御支配の中で与えられた出来事なのです。イエス様の御降誕が神様の御計画の中でのことであるとするならば、それによってもたらされた私たちの救いもまた、永遠の神様の救いの御計画の中での出来事なのです。
 私たちの救いは神様の御業ですから神様の救いの御手の中にあります。このことこそアドベントの日々の中で心に刻み、ヨハネのように「光についてあかしするため」に歩んで参りましょう。
 アドベント1 『ことば、いのち、光』
ヨハネの福音書 1章1節−5節
2012年12月2日(日)

 ヨハネの福音書は印象的な書き出しです。「初めに」と書き出すのですが、これは聖書の一番始め創世記の書き出し「初めに、神が天と地を創造した」という言葉を意識し、重ね合わせて読むことを求めるように書いたのだといわれています。そこには「ことば」があった、と言うのです。この「ことば」が何であるのかということは、14節で人となって来られた神の御子イエス様であることが初めて明らかにされるのです。
 そして4節で「この方にいのちがあった」と続きます。ヨハネの福音書が「いのち」と言う場合、目に見える生物の命だけを指しているのではなく、目に見えず手で触れて確認することが出来ない「永遠のいのち」をも指しているのです。そして、その「いのち」はイエス様にあったと言うのです。さらに4節では「このいのちは人の光であった」と続きます。光とは、私たちの足元を照らし出すものであり、私たちの行くべき目当て、歩むべき方向を示すものであり、私たちの目の前にあるものが何であるか、私たち自身が何者であるかを明らかにするものです。このイエス様の光に照らされなければ、私たちは自分が何者であるのかさえ分かりません。さらに光は、私たちの希望であり、喜びであり、平安であるのです。
 5節では「闇が光に勝つことはない」と続きます。私たちを襲う様々な不安、嘆き、老い、死の恐れ、それらはすべて闇の力です。イエス様の光が、そのすべてを打ち払うのです。
 クリスマスの期待の中に、イエス様の「ことば」を受け止め、イエス様の「いのち」を頂き、イエス様の「光」を高く掲げて、この一週も歩んでまいりましょう。