ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年1月]を短くまとめてのせています。

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 『キリストの教えのうちに』
ヨハネの手紙第二 7節−13節
2013年1月27日(日)

 当時の諸教会を惑わしていたのは、グノーシス主義的な異端でした。教会に混乱をもたらすものというのは何時の時代でも、次から次へと出てきます。本物であるか偽者であるかは、御言葉から以外に正確に区別できるものはありません。私たちは常に御言葉によって、真理とは何かを教えられ、その真理から離れないようにしたいものです。
 9節で「キリストの教えのうちにとどまらない者」と「その教えのうちにとどまっている者」とを比較して教えています。社会がどんなに変化しても真理は変わりません。
 異端やカルトに対して注意が必要ですが、私達は信仰をずらされたり、真理がすり替えられたりすることに注意すべきです。たとえば、私はクリスチャンと言っても救われないのではないか、信じたのにこんなに罪深い私は、神の子ではないのではないか、失敗ばかりして、良いことが何もできない私には救いはないのではないかなどというのはサタンの罠です。あるいは、私は教会に通っているから大丈夫、奉仕をし、献金を捧げているから大丈夫、数十年前に洗礼を受けたから大丈夫、クリスチャンと言っているあの人よりちゃんとしているから大丈夫、クリスチャンのように見える生活を送っているから大丈夫、こういった考えも悪魔の巧妙な罠です。
 何でも良いから信じていることが大切なのでもありません。単純な信仰、だけれども非常に大切な信仰として「神が人となってこの世に来てくださり、私の罪のために贖いの死を遂げ、復活してくださった」この福音、すなわち「キリストの教えのうちに」とどまり、信じ続け、恵みと愛と平安を受け取り続けましょう。
 『愛のうちを歩む』
ヨハネの手紙第二 1節−6節
2013年1月20日(日)

 ヨハネの手紙第二を2回に渡って読みます。
 ヨハネは「真理」と言う言葉を1節から4節までに5回も使っています。真理とは何でしょうか。イエス様が「わたしが真理である」(ヨハネ14:6)と言っています通り、真理とはイエス様のことだと言って良いでしょう。すから、真理と言う言葉を、イエス様に置き換えて読んで頂ければ、とてもよく分かっていただけるのではないでしょうか。
 3節で「恵みとあわれみと平安は、私たちとともにある」とあります。私たちの信仰生活はどうでしょうか。恵み、憐れみ、平安を大いに受け取り、味わい、楽しんでいるでしょうか。かめばかむほど味わい深い神様の恵みや、憐れみや、平安を味わい尽くして、楽しみ、喜びが溢れている、という人は、もしかしたら多くはないかもしれません。それは、もったいない話です。
 5節、6節で、「互いに愛し合うということ」「愛とは、御父の命令に従って歩むこと」、「愛のうちを歩むこと」と「愛」と言う言葉を3回使っています。これがヨハネの切なる願い、そして神様が私たちに懸命に伝えようとしていることなのです。この愛が、真の神様からくる愛であることを、私たちクリスチャンは忘れてはなりません。イエス様を信じて歩みだした者には誰でも与えられるものであり、私たちはいつも「愛のうちを歩む」つまり愛を中心にした行動でなければならないということなのです。「愛のうちを歩む」とは、神様を愛し、神様の戒めを守り、互いに愛することです。愛されている幸いを感謝し、イエス様の愛のうちを歩ませていただきましょう。いつもイエス様の行なってくださった愛ある業を覚えながら、神様の愛のうちを歩んで参りましょう。
 『真実な方のうちに』
ヨハネの手紙第一 5章16節−21節
2013年1月13日(日)

 ヨハネの手紙の第一の最終回です。
前回ヨハネは「神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」と、祈りについて書いておりました。しかし16節では「願うようにとは言いません」、などともいうのです。
 「死に至らない罪」と「死に至る罪」というのが出てきます。とても難しい個所の一つで、いくつかの解釈があります。私たちは文脈や、手紙の目的から考えて、読むとそれほど難しくなく読めるでしょう。手紙の目的から考えるならば、このヨハネでは「死に至る罪」を犯しているのは反キリスト(2:19)たちとなるのではないでしょうか。もともとクリスチャンの仲間として歩んでいましたが、まことのクリスチャンではないため、教会から出てゆき、さらには教会を攻撃したのです。現代における反キリストの代表としてはエホバの証人、モルモン教、統一教会などが挙げられるでしょう。
 さて、ヨハネはこの18、19、20節で「知っています」と書いています。特に20節は私達が決して死に至る罪を犯して神様から引き離される事はないということを確信させてくれるのではないでしょうか。
 最後に「偶像への警戒」を書いてこの手紙を閉じます。人間は、何か頼りにするものが必要です。神様を第一にしなければ、いろいろなものが偶像となるでしょう。偶像礼拝を避けるということは、神様を第一にして生活するということなのです。
私たちは神様に愛されている者であり、真実な方のうちに、すなわちまことの神、永遠のいのちであるイエス様のうちにいるのです。どうぞ確信を持って真実な方のうちに光の中を歩んで参りましょう。
 『私たちの確信』
ヨハネの手紙第一 5章13節−15節
2013年1月6日(日)

 13節にはヨハネがこの手紙を書いた目的の一つとして「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」と記されています。イエス様を信じ永遠の命を持つようになったのだから、その永遠のいのちを持っていることを、益々分かってほしいということなのです。そしてその上で間違った教えに注意し、兄弟を愛するようにしなさい、というのです。ヨハネが手紙を書いた時代は、ローマ帝国の迫害が激しくなっていました。外敵に対しては、御言葉の真理に立ち、内側では兄弟愛に満たされることが大切であるということでしょう。
 そしてどんな危機的な状況になってもクリスチャン一人一人には、神様に支えられていることを14、15節で読者を励ますのです。
 神様に願いが聞かれるとのみことばですが、私達が気をつけなくてはならないのは、御心と思って行なったけれども、神様は私の願いを聞いて下さらなかった、と誤って考えてしまうことです。神様の思いと人の思い、神様のご計画と人の計画、その違いに私達は細心の注意を払う必要があります。
 今日のタイトルは「私たちの確信」としました。私たちの祈りは神様に聞かれています。自分の思い通りになるとか、ならないとかそういう次元ではなく、確かに私たちは神様とつながっています。これが私たち信仰者に与えられた恵みであり、確信なのではないでしょうか(ローマ8:28、Tペテロ5:7)。
 永遠のいのちを持ち、必ず最善をなしてくださる神様の子とされている私達は、一切の事をご存知で心配していて下さる父なる神様に、いつもゆるぎない確信と信頼を持って祈る者として歩んでまいりましょう。