ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年2月]を短くまとめてのせています。

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  『天地の造り主、全能の父なる神』(使徒信条シリーズ2)
ローマ人への手紙 8章14節−17節
2013年2月24日(日)

 「天地の造り主」、「全能の神」「父なる神」の三つに分けて見てみたいと思います。
 聖書は神様が「天地の造り主」であることを教えています。神様を「天地の造り主」と告白する時、神様は無から有を生み出すことのでき、私達はその被造物であるということを告白しているのです。同時に、その神様が私達とこの世界を善きものとして造ってくださり、この世界を通して御自身の御栄光をあらしてくださっていることを告白しているのです。それはすなわち、こんな私でも、神様の栄光をあらわす者として神様に造られたものであるということでもあるのです。
 旧約聖書で「全能の神」と出てくる箇所は、アブラハム、イサク、ヤコブとの間に立てられた約束に忠実であられる「契約の神」であるということです。「全能」という言葉には、何でもおできになる、またそれをなすために必要なあらゆる権威や力を持っておられる、という意味もありますが、強調されているのは罪深い私達には不可能な「救いを成就させてくださる神様」の御力です。全能の神は、処女マリヤから生まれたイエス様を十字架の死からよみがえらせ、救いの契約を成就されるのです。「全能の神」と告白するとき「恵みの契約」を覚えたいものです。
 最後に「父なる神」についてです。私たちはこの「父」ということをあくまでも三位一体における父としてとらえることが必要です。そして聖霊なる神様のお働きで、イエス様の父を「わたしの父」と呼ぶことがゆるされます。しかもただ「わたしの父」というだけでなく「アバ」すなわち父ちゃん、とかパパと叫ぶ特権と光栄が授けられました。
 これらを深く覚え信じ告白し続ける信仰生活を歩んでまいりましょう。
 『われは信ず』(使徒信条シリーズ1)
マタイの福音書 16章13節−20節
2013年2月17日(日)

 私たちは、なぜ使徒信条を告白するのでしょうか。これは神様が御言葉をもって御自身を私たちに示してくださったことに起因しています。神様がみ言葉で御自身を表されます。ですから私たちもこの神様への信仰を、言葉をもって表すことができるのです。
 それでは私達が信仰を告白するというのはどのような意味があるのでしょう。私たちが聖書の教えるように心で信じた事柄を「口で告白する」ことを通して公にすることを意味しているということです。自分がイエス様に赦された者である事実を証ししているということです。信仰は心の奥底に隠しておく事ではなく、言い表されるべき事なのです。また、使徒信条を告白することで私たちが世界中の教会と繋がっているということです。教会は数多くのグループに分れていますが、それらを一つに集めるもっとも力強い信仰の絆がこの使徒信条なのです。さらには、異なる時代の教会とも繋げます。歴史の中で歩み続けてきた代々の教会ともその信仰において一致していることを証ししているということです。
 マタイ16:15で「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」とイエス様がお尋ねになりました。私達もイエス様というお方をどう信じているのか神様のほうから問われ続けるのです。「私たちの信仰」ではなく、「教会の信仰」でもなく「キリスト教の信仰」でもなく、「私の信仰」を求めておられるのです。信じるということは大事ですが、同じくらい私の信仰を言い表すということも大事で、他の誰でもない私に問われていることですから、責任が伴っていくのです。
 「われは信ず」という言葉によって正しく神様を知り、信仰を告白し、この道から離れずに歩んで参りましょう。
 『善を見ならう』
ヨハネの手紙第三 9節−15節
2013年2月10日(日)

 この手紙はヨハネが愛するガイオにあてた手紙です。しかし正反対の人物としてデオテレペスという人の名が9節に出てきます。彼は、意地悪いことばでヨハネたちをののしり、兄弟たちを受け入れず、受け入れたいと思う人々の邪魔をし、教会から追い出していたというのです。事情があるにしても、明らかに神様に敵対することを行っていたのです。これらのことは利己心、自分中心、他人の迷惑を考えないことから始まっているということです。そして全ての人間関係を壊すことです。
 このデオテレペスの行動から私達は、教会の中で自分がどのように振舞っているのか、どのような言葉を使っているのか、自分の奉仕や礼拝、献金や態度がどのようであるか、そのような行動にいたる自分の心がどのような状態なのかチェックすることができるでしょう。
さて私達が悪い態度から守られるために、良い見本が必要です。ヨハネは12節で、デメテリオの名を挙げています。彼は、みなの人からも、真理そのものからも、ヨハネたちからも、三重に推薦されています。彼の生き方は、信仰と生活とが合致しているということでしょう。それは重要な偉業をなした、とか、大きなことを成功させたということなどとは関係ありません。私達はつい、そういう目に見えることに心も奪われてしまいますが、神様はその心を見られるのです。他人に迷惑をかけないとか、まじめに真っ当に暮らすとか、それは大切なことですが、そういうこの世の中的な価値観でもありません。信仰と態度が大事です。
 神様から喜ばれる歩み、本当の善なる歩みとは、信仰と態度が合致している生き方です。デメテリオもすばらしいですが、最高の模範である主イエス様を見上げながら、歩んでまいりましょう。
 『真実な行ない』
ヨハネの手紙第三 1節−8節
2013年2月3日(日)

 2回に分けて、このヨハネの第三の手紙を読んで参ります。
 5節に旅人をもてなす事について書かれています。ヨハネの時代、キリスト教が広く広がっていく時代にあって、旅をしている兄弟姉妹に、もてなしの行為、愛や親切を働かせる事は、どんなに必要であったかが想像できます。
 「旅をしているあの兄弟たち」とは具体的には「御名のために出て行」って「愛についてあかし」して回る人々、つまり神様のために働く人々です。その意味ではただの旅人というより、神様の働き人をもてなす行為が、「真実な行い」であるということになるでしょう。「次の旅に送り出してくれるなら」とありますから、必要な休息、時には護衛、必要な経費までをも配慮するという、物心両面の援助を意味したと思われます。
 この手紙の受取人のガイオの肉体は弱かったようですが(2節)、旅をしている兄弟にちゃんともてなしをしていたのです。自分が出かけていくことが出来なくても、献金や祈りを持ってサポートし、自分の職場、家庭から離れることなく、伝道に当たることが出来たのです。
 「真実な行い」というタイトルをつけましたが、私達の、私の真実な行いとは何でしょうか。私達は、決して自分のことだけ、自分の教会のことだけを考えてしまっていないでしょうか。ある人は宣教師、牧師や伝道者を支える事を思い浮かべるかもしれません。もちろんそのような人々だけでなくたくさんの神様の働きがなされています。関節的な働きであっても御言葉を伝える同労者となること覚え、これからも積極的に祈り、そして献げ、この働きを支えて行くという「真実な行い」を続け、ますます神様の働きに積極的に加わっていこうではありませんか。