ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年3月]を短くまとめてのせています。

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  『三日目に死人のうちよりよみがえり』(イースター礼拝)
(使徒信条シリーズ7)
マタイの福音書 28章1節−10節

2013年3月31日(日)

 イースターおめでとうございます。講解説教シリーズはちょうど「三日目に死人のうちよりよみがえり」の箇所です。
 この箇所は使徒信条の中でも最も重要で最も受け容れにくい部分かもしれません。死んだ人が生き返るなどということは、今も昔もありえないことだからです。しかもイエス様の復活は、再び滅びるような有限の命に復活されたのではなくて、永遠の命に復活し、今も生きて働いておられるのです。このことを信じるのが復活の信仰です。
 使徒信条は「三日日に」という言葉にこだわっています。これはイエス様が完全に死なれたのだということを強調するためです。それだけでなく、「死にて葬られ、陰府下り」の箇所と同様、死の経験が現実と父なる神に捨てられると言う苦難の極みを味わい尽くしてくださったことを意味しています。イエス様の復活の「三日間」の間に安息日を挟まれていたことも意味があることでしょう。旧約聖書の創造の7日間のうち、大事な安息日に復活されたのではなく、「初めに、神が天と地を創造した」といって始まる創造の最初の日によみがえられ、新しい命を再び創造してくださったということでもあるのです。私達はこの復活された日曜日の安息は、守らねばならないことということ以上に、信じる私たちに、今やまことの安息、真の希望として与えられているのです。
 イエス様の復活の出来事を通して、世の初めから変わることのない神様の御心がはっきりと示されています。その愛の御業を示された私たちは、最も大切な、イエス様の復活をハッキリと信じ、希望を持って、死に勝利したイエス様を礼拝しながら、永遠の命に活き活きと生きるものとして歩んでまいりましょう。 
 『十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり』
(使徒信条シリーズ6)
マルコの福音書 15章37節−47節

2013年3月24日(日)

 受難週が始まります。使徒信条も「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」のという箇所です。
 イエス様の十字架刑による死は、この上もなくむごたらしく、格好悪いものでした。弟子にも裏切られ、残酷な鞭打ちがされ、目隠しされ嘲られ、いっさいの尊厳を無視されて処刑されたのです。何より悲惨なのは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたことです。イエス様の死は、惨めな絶望の死、呪われた死(ガラテヤ3:13)、神から断罪された者としての死でなければならなかったのです。
 使徒信条は「死にて葬られ、陰府に降り」と続きます。なぜ「葬られ」とあるのでしょうか。四つの福音書とも「葬り」に関する記事を丁寧に残しています。イエス様が死んで「葬られた」というのは、イエス様の死が公然の事実であると世界に知られるためです。イエス様が本当に死なれたということは、あきらかな歴史的事実です。
 「陰府に下り」という一文は、聖書からその明白な答えを導くことができない様々な思想や教理を生み出してしまう部分です。ハイデルベルク信仰問答の第44問では「陰府に下り」の部分を「地獄のような不安と苦しみから私が救われ解放されていることを確信するため」だと説明しています。この世で体験する肉体や精神の苦しみだけでなく、私達の想像もつかない苦しみをも担ってくださったということなのです。
 十字架と死と苦しみは私達の為ですから、私達はそのイエス様の愛に応答すべく「キリストとともに十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)者として神の御心の実現のために生きるものとさせていただきましょう。
 『ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け』(使徒信条シリーズ5)
マタイの福音書 27章11節−26節

2013年3月17日(日)

 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という部分です。
 使徒信条はイエス様の人生について「苦しみ」であったというのです。「処女マリヤより生れ」と言った後、「ポンテオ・ピラトの下に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」というのです。イエス様の誕生と死の間の人生を「苦しみを受け」という一言でまとめているのです。
 聖書にしるされているイエス様の公生涯は家族からも理解されず、信頼していた弟子たちにすら裏切られるような、「苦しみを受け」というたった一言の言葉によって要約されるような人生でした。その受けられた苦しみというのは、私たち人間の罪に対する神の罰に他なりません(イザヤ書53:4-6)。
 さて、使徒信条その「苦しみ」の説明を「ポンテオ・ピラトのもとに」と十字架に集約させています。そもそも殺そうとしたのは、ユダヤ人の指導者たちでしたが、十字架刑の判決を下す権限を持っていたのは、このポンテオ・ピラトだけでした。彼は真の神であられる方に対して、その無罪を知っていながら有罪判決を下したのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのピラトの誤った決断が、父なる神の御心から出たことであったということなのです。イエス様を十字架の死に引き渡したのは、父なる神であり、イエス様は人の裁きを受けることを通して、実は、私たち人間の罪に対する神の裁きを受けておられたのです。父なる神の裁きを御子なる神が受けられたのです。神が神を裁かれたのでしたそれがイエス・キリストの苦しみと十字架の死の本当の意味なのです。
 この方の、命令を守り、傷のない、非難されるところのない者として、この方を証しする者として歩んで参りましょう。 
 『聖霊によってマリヤより生まれ』(使徒信条シリーズ4)
マタイの福音書 1章18節−25節

2013年3月10日(日)

 「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、」という部分を聖書から教えられたいと思います。
 「聖霊によりて宿り」という告白の中に、神御自身が自ら来て、歴史の一部となってくださり、私たち人間の歴史の延長線上に現れ出た救い主ではなく、歴史の外側から歴史の中に人となって介入し、創造の歴史に新しい始まりをもたらしてくださった、という深い意味があるのです。
 それだけでなく、イエス様は「まことの人間性」つまり、神様のかたちに創造された罪なき人間の姿、人間の本来あるべき、理想の姿を示し、また信じるものには「まことの人間性」が回復されるということを示してくださっている、という広がりを持っているということでした。
 また「おとめマリヤより生まれ」という告白の中に、救い主イエス・キリストの誕生は、しるしとして聖霊によって処女マリヤから生まれるということが示されていたことが成就したという神様のご計画の確かさが示されています。それだけでなく、100%神様であるイエス様は100%人間に、つまり私たちと同じ弱さを共感できる存在となってくださったということ、さらには神のあり方を捨て、ご自分を無にして、仕える者の姿をとって、私たちの見習うべき見本となってくださり、完全な人間、まことの人間性を示しつつ、私たちの歩むべき謙遜の素晴らしい見本となってくださったということの意味が含まれている告白なのです。
 この深い意味と恵みによって信仰が強められ、「主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ」という使徒信条を心から信じ、心から告白して信仰生活をご一緒に送ってまいりましょう。
 『神のひとり子、我らの主』(使徒信条シリーズ3)
ヘブル人への手紙 1章1節−4節
2013年3月3日(日)

 使徒信条の第3回目ですが「そのひとり子」、そして「われらの主」という2つのポイントで進めてまいりたいと思います。
 イエス様を「そのひとり子」といってイエス様に対する告白を始めています。教会の歴史の中で、「イエス様は神のひとり子キリスト」と信じることを巡っては大変な論争が繰り返されてきました。しかし聖書は「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1:18)といっている通りです。
 ひとり子なるイエス様を通してのみ、私たちは父なる神のもとに行くことができると聖書ははっきりと教えています。ですから、「神のひとり子を信ず」と告白する所に、父なる神についての告白と、聖霊なる神についての告白への道筋が開かれるのです。この第二項の告白に、私たちの信仰の中核があるとさえ言ってよいほどのことなのです。
 「神のひとり子」がイエス様と父なる神との関係についての表現であったのに対して、「我らの主」とは、イエス様と私たちとの関係について言い表す告白です。そもそもイエス様を「主」と呼ぶことは、キリスト教信仰における信仰告白の出発点でした。私たちはこの方を主と告白するとき、イエス様こそ天と地のすべての権威を持っておられる真の主であると、この大胆な告白をもって福音を証しすべきなのではないでしょうか(Uコリント4:5)。
 私たちは心から「神のひとり子」であるイエス様を「我らの主」と呼ぶことができる者とされているのです。この幸いを今一度深く噛みしめながら、「神のひとり子、我らの主」を信ず、と思いを新たに告白してまいりましょう。