ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年5月]を短くまとめてのせています。

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   『聖霊が臨むとき』
(ペンテコステ&バプテスマ)
使徒の働き 2章1節−6節
2013年5月19日(日)

「聖霊が臨むとき」というテーマで4つのポイントでまとめます。
 1.「聖霊が臨むとき」とはどのようなときだったでしょうか。弟子達が集まっていたときでした。イエス様を信じ、神様に従う私たちは弟子たちのように集まり、さらに深く祈り合い交わりをし続けましょう。聖霊様はそこに下ってくださりともにいてくださいます。
 2.「聖霊が臨むとき」一人一人の意識はどこにあったでしょうか。きっと周りを見回してあの人にも、この人にも聖霊が降ったということだったでしょう。そしてその上で自分にも聖霊が降ったことを悟ったのではないでしょうか。隣人は、聖霊が与えられている人、あるいはこれから与えられる人です。パウロはキリストが代わりに死んでくださったほどの人(ローマ14:15)と言いましたが、私達は互いに対する尊敬と憐れみ、愛と誠実さを欠かさずますます持ち続けましょう。
 3.「聖霊が臨むとき」私たちは弟子達の心はどのような状態だったでしょうか。聖霊は、見ようとしなければ見えないもの、知ろうとしなければ、知り得ないものです。私たちは、もうすでに聖霊が送られてきていることを、信じれば、聖霊を知ることができるのです。聖霊を信じて、聖霊をお迎えし、聖霊の働きを信じ聖霊をさらに意識して、聖霊に自由に働いていただきましょう。
 4.「聖霊が臨むとき」には何が起こったでしょうか。そこには信じる人たちが起こされ、バプテスマが授けられました。私たちのこの教会でもペンテコステで言われたことが実現します。さらに信じる方が起こされ続けバプテスマを受ける人々が起こされ続けるようにいつも祈り続けて参りましょう。
  『聖徒の交わり』
(使徒信条シリーズ12)
ペテロの手紙第一 4章7節−11節
2013年5月12日(日)

 使徒信条の講解説教シリーズ12回目、「聖徒の交わり」という箇所です。前回も申し上げましたとおり「聖なる公同の教会」とは何であるかを説明して「聖徒の交わり」と表現されているということです。
 ハイデルベルク信仰問答によれば「第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっているということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならないということです。」と説明されます。
 私たち一人一人はそのままでは聖ではなく神様に聖別されてこそ聖であるといえます。教会の頭であるキリストの聖さに私たちがあずかっているゆえに、聖なるものつまり聖徒とされるのです。つながりや交わりも同様で、ただの私たち同士のつながりは聖ではありません。聖なる三位一体の神様にある交わりは聖なる交わりであるということなのです。
 また聖徒の交わりとしての教会は、かしらなるキリストの富と賜物を受け取る側だけに立つのではなく、そのようにして受けた賜物を互いのために用いるためであるということです。
 今日の聖書の箇所でも、私たちは各々がイエス様から豊かな賜物で自分自身を豊かにするために用いるだけでなく、互いの益と救いのために喜んでささげ、仕え合うためであると教えられているのです。しかもそれは主から賜物を委ねられたものとしての「責任」であることを「わきまえなければならない」と命じられています。聖徒の交わりとは、求め合う交わりではなく、与え合う交わりであることを覚え、喜んで実践し、またこの交わりに新たに人々を招く為に遣わされて参りましょう。
 『聖なる公同の教会』
(使徒信条シリーズ11)
マタイの福音書 16章13節−20節
2013年5月5日(日)

 使徒信条講解説教11回目「聖なる公同の教会」という箇所です。教会とその働きは、聖霊のみざわですから先週の「われは聖霊を信ず」の土台の上にあり、また来週の箇所「聖徒の交わり」とは非常に密接です。2回ワンセットと捕らえつつ「聖なる公同の教会」に焦点をあてます。
 「教会」についてですが、まず教会は「聖なる」ものであるといいますが教会はいつも厳しい罪の現実の中にあります。「聖なる」というのは、元々は「区別する」、あるいは「取り分ける」という意味の言葉です。新改訳聖書は「聖別する」という特別な翻訳の造語ですがまさにこれが「聖なる」という言葉の意味です。私達の側にある清さということではなく、選ばれるに相応しくないけれども神様が選んで区別してくださったということなのです。「聖なる教会を信ず」とは、教会が神様の恵みの選びによって召し集められたものであることを信じるということなのです。
 「公同の」とは「カトリック」という言葉で「普遍的な」という意味の言葉です。教会はどの時代、どの国にあっても変わることはないということを表す言葉です。ペンテコステの聖霊降臨における「教会誕生」は厳密には、「新約時代の教会の誕生」であり使徒信条の示す教会観からいえば、教会は最初からあり神の民を形成していたのです。確かに、教会は時代毎、場所毎で様々な形態を取りますがその本質においてはいつも変わることがないのです。
 教会のかしらであるイエス様の御声に聞き従い、「聖なる公同の教会」を信ずと私たちの信仰を告白することが、果たさなければならない教会の使命です。神の民に加えられた者として、この地に建てられたこの教会にお互い責任と喜びをもって仕えてまいりましょう。