ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年6月]を短くまとめてのせています。

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 『福音をゆだねられた者』
テサロニケ人への手紙第一 2章1節−2章12節
2013年6月30日(日)

 2章はテサロニケの町の人々から受けるいわれのない非難と中傷に対してパウロが弁明をしている箇所です。
 当時の地中海世界には、パウロたちが非難と中傷を受ける背景がありました。諸国を巡る似非哲学者、偽宗教家のような輩がいたのです。そのような偽者の中で懸命に本物を伝えようとしているという意味では、現代にも通じるところがあります。
 だからこそパウロは4節で「福音をゆだねられた者」として相応しく歩むべきだというのです。これはパウロたちだけではなく、伝道者として立てられているものだけでもなく、福音を聞き、受け入れた人々すべて、すなわちクリスチャンの歩み方は「福音をゆだねられた者」としての歩みであるはずです。
 4節に「神を喜ばせようとして」とあります。私達は人間中心ではなく神様が中心であるべきです。
 5節には「へつらいのことば…むさぼりの口実」はなかったといい6節には「名誉を受けようとはしません」とあります。「福音をゆだねられた者」として、名誉欲、金銭欲をもたず、使命と愛が中心だったのです。
 9節に「あなたがたのだれにも負担をかけまいとして」とありますし10節に「敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまった」とあります。口での教えだけでなく正しい生活の実践と手本を提示していたのです。
 わたしたちも、人間中心ではなく神様を中心とし、欲中心ではなく使命と愛を中心とし、口での教えだけでなく正しい生活の実践と手本を提示できるように「福音をゆだねられた者」として歩んでまいりましょう。
  『信仰と愛と希望』
テサロニケ人への手紙第一 1章1節−1章10節
2013年6月23日(日)

 しばらくテサロニケ人への手紙を読みます。ギリシヤの北部にあるマケドニア州の都であったテサロニケの教会に宛てた手紙です。海上交通と陸上交通の要衝であり、とても活気のある町でした。使徒の働き17章には、どのようにして、福音がテサロニケの町に宣べ伝えられ、テサロニケの町に教会がはじめられたかが記録されています。テサロニケ教会はよい教会でしたがキリストの再臨について間違った考えを持っている人がいたので、この手紙を書き送ったので「再臨書簡」と呼ばれます。
 テサロニケ教会の人びとは、ユダヤ人たちから迫害を受け、大変な目にあいましたが、そのひどい苦しみの中でも、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、信仰に歩み、教会を建て上げていったのです。手紙の書き出しのところでは、テサロニケ教会の人々が、困難な状況の中でも、信仰と愛と希望をもってよい歩みをしていたことを、パウロが神様に心から感謝しているとても素晴らしい箇所です。
 テサロニケ教会のクリスチャンは、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を固く持って歩んだのです。特に、終わり時のキリストの再臨による、救いの完成という希望を確信し、迫害にも揺るぎなく忍耐して歩んだことは、とても素晴らしいことでした。
 私たちも同様にどのような状況であっても、再臨の希望に歩み続けることが大切です。このような歩みに倣って真剣に祈り求め歩んでまいりましょう。そのためにも「信仰の働き」すなわち信仰の行い、「愛の労苦」すなわち愛する努力、そして「主イエス・キリストへの望みの忍耐」希望の確信のある忍耐を実践し、今を神様から与えられた時として、大切にして、1日1日を歩んで参りましょう。
  『賛美する集まり』<オープンチャーチ>
使徒の働き 2章42節−2章47節
2013年6月16日(日)

 教会とはどんなところでしょうか。当たり前のように教会生活をしていると、その答えを見失うことがあるように思います。どの教会にも共通するもので、教会にしかできないこと、それは「神様を礼拝するところ」ということです。何万人という教会でも、産声を上げたばかりのたった二人しかいない教会でも神様を礼拝するのです。
 それでは礼拝とはとはなんでしょうか。ある辞書では「神などを拝むこと」と説明されていましたが、個人的に神様に祈ることもできます。その意味では教会でなくても出来るわけで、そこで大事なってくるのが、共に礼拝する、みんなで礼拝するということです。
 教会とはどんなところで、何をするところかという質問に対して「教会は、共に礼拝をするところ」というのが第一義ということになります。
 その「礼拝をする」ということの中の欠かすことが絶対できない要素として「賛美」があります。讃美歌とは、神様を賛美する、つまり褒め称える歌です。歌を通して神様は素晴らしい、私たちを救ってくれた、ありがとう、と歌うのです。教会はともに礼拝をするところ、そして賛美をする集まりです。そこには私たちを愛し私たちに向かっていつも教え導いてくださる神様がいてその神様を褒め称え、感謝し、神様の存在を感じさせてくれる賛美で満ち溢れる場所、それが教会なのです。
 教会は毎週日曜日の礼拝の集まりを続けます。どうぞいつでも教会にいらっしゃって、一緒に賛美し、礼拝をささげ、神様とともに歩んでまいりましょう。
  『とこしえの命を信ず』
(使徒信条シリーズ15)
ヨハネの福音書 3章5節−3章15節
2013年6月9日(日)

 使徒信条の最後の箇所です。前回の「からだのよみがえり」とワンセットの後半として「とこしえの命を信ず」に焦点を当てます。
 永遠の命については、まずこの祝福が今すでに私たちのうちに始まっているということです。私たちは地上と天国、時間と永遠とを対立的に捕らえますが、聖書の教える永遠とは、現在から切り離されたものではありません。イエス様を信じ、罪赦され、神の子どもとされた時から、すでに私たちはこの地上にあって永遠の命を生き始めているのです。
 私たちが今、イエス様の十字架の贖いを通して与えられている命、これがイエス様の復活の命にある新しい歩み(ローマ6:4-5)であり、永遠の命の始まりなのです。イエス様と十字架から離れた「永遠の命」という概念は、全てこの世の思想、人間の浅はかな哲学や異教的な教えとなってしまうからです。
 さて、私たちのうちで、永遠の命が始まっているのですが、一方で永遠の命は私たちにとっての希望でもあります。黙示録21章では「新天新地」について語られています。イザヤ11章ではその新天新地について記されていますが、被造物全体の回復です。前回、私たちの救いは霊魂不滅などではなく、身体をも含めたよみがえりであると申し上げましたが、神様がもたらす、究極の救いとは、人間のたましいの救いだけでなく、身体まるごとの救いだけでもなく、全被造物の救いでもあるのです。
 私たちは「すでに」与えられている永遠の命の恵みと、「これから」与えられる永遠の命の希望(Iヨハネ3:2)という信仰に生かされて、歩んでまいりましょう。そして使徒信条を私の信仰、教会の信仰として告白してまいりましょう。
  『からだのよみがえり』
(使徒信条シリーズ14)
コリント人への手紙第一 15章50節−15章58節
2013年6月2日(日)

 使徒信条の最後の部分に入ってまいりました。この「からだのよみがえり」箇所という部分と「とこしえの命を信ず」は、切り離せませんので、2回ワンセットで「からだのよみがえり」に焦点をあてます。
 クリスチャンにはどんな時にも取り去られることのない希望が与えられています。最終的な勝利が約束されているのです。それは私たちの古い人間が滅び、完全に新しい人間に生まれ変る希望です。
 言うまでもなく私たちの復活の希望は、イエス様が死者の中から復活したということに唯一の根拠があります。私たちはイエス様の復活から離れて、自らの復活について語ることはできませんし、イエス様の再臨から離れて、自らの永遠のいのちを語ることも出来ません。イエス様から切り離されたとき、人間の考えの限界を超えられず、聖書の信仰から逸脱していきます。たとえば「霊魂不滅」という考え方や、霊肉二元論的な思想です。私たちは肉体を否定し、霊魂の不滅を信じるのではなく、キリストにあって死に、キリストにあって生かされる新しい創造の身体に与ることの希望を持っているのです
 「身体のよみがえり」という復活の信仰は、心や思い、霊や魂という目に見えない世界の言葉ではなく、目に見える現実の言葉です。ですから「身体のよみがえり」を信じる信仰は、現実に目を向けさせ、現実に立ち向かって行く力を与えてくれるのです。復活の希望に生き、「主の業」に励むことができるのです。主から与えられた命を感謝をもって生きることができ、他の人に対して敬意をもって接することができるのです。「身体のよみがえり」を信ずと告白し、心で、そして自分のすべてでこのことを信じ、今ある現実の信仰生活を全うしてまいりましょう。