ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年7月]を短くまとめてのせています。

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 『心を強め』
テサロニケ人への手紙第一 3章11節−3章13節
2013年7月28日(日)

 具体的に3つの事柄のためにパウロは祈っていると伝えています。
 第一の祈りは「道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように」との祈りです。一刻も早くテサロニケのクリスチャン達の所に着きたいという思いからですが、それは「神の助け」なしには、その道が開かれることがないことを熟知していたからでもありました。私たちは人生の道、あるいは今日の歩みを「道を開いて、その道を導いてください」と祈りつつ歩むことが信仰生活です。
 第二の祈りは「互いに、そして、すべての人に愛を増し加え、豊かにしてくださるように」というものです。迫害の中にあって、教会の兄弟愛にちてはパウロからほめられて(4:9)いますが、それだけでなく「すべての人への愛」についてパウロは言及しています。「すべての人」とは彼らを苦しめ、迫害する隣人たち、敵対する者たちも含まれるのもまた事実です。私たちも「すべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように」と祈ってまいりましょう。
 第三の祈りは、「心が強められ、聖さにおいて非難されるところがないように」ということです。ここでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちが「聖く、責められるところのない者」となるように、そのために「心が強められる」ことを祈っているのです。この「聖さ」については「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という戒めと結びつけて考えられています。
パウロのこれらの祈りは、再臨を前にしての生き方を教えています。心を強めて、神様により頼み、聖くあるために、愛を増し加え、満ちあふれさせてくださるように祈り求めて歩んでまいりましょう。
 『主にあって堅く立つ』
テサロニケ人への手紙第一 3章1節−3章10節
2013年7月21日(日)

 テサロニケ人への手紙の講解説教シリーズ5回目です。
 3節で「私たちはこのような苦難に会うように定められている」とありますが、クリスチャンとして召されたのは、苦しみを受け、それを耐え忍ぶことであるとパウロは言います。だからこそパウロは「あなたがたを強め励まし、苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにしたい」と願っていました。そのような中もたらされた素晴らしい知らせは「主にあって堅く立っている」というものでした。
 私達も、愕然とするような困難に直面することがあります。
 しかしイエス様の再臨の希望に堅く立ちたいと思います。イエス様の再臨は、救いが栄光のうちに完成される限りない喜びの日であること覚えましょう。
 さらに、再臨の希望に堅く立つためには、私たちの互いの励まし、再臨の希望に堅く立つ者同士の励まし合いです。他の兄姉が、困難な中で耐え、信仰をもって乗り越えている姿を見て励まされます。互いに励ましで乗り越えていく勇気が与えられるのです。
しかし相手から受けるばかりでなく、自分もそのように戦いながら、そこで信仰にしっかりと立つことで、それがまた他の兄姉の励ましとなり、慰めとなり、模範ともなるということをも覚えたいと思います。
 パウロは、自ら生きる望みさえ失うような「苦難」に直面しながら、そこでなお「あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります」と語ることができました。このような力強い慰めに満ちた信仰の交わりを、私達の交わり、私達の教会も築いて参りましょう。
 『望み、喜び、誇りの冠』
テサロニケ人への手紙第一 2章17節−2章20節
2013年7月14日(日)

 2章の最後のところでは、テサロニケの信徒たちを覚えながら、パウロは彼らに対する熱い想いを語る中でイエス様の再臨(19節)について話しています。イエス様の再臨のときに望み、喜び、誇りの冠となるのは、そう、あなたがたこそ相応しい!と。
 みなさんは、誰かの望み、喜び、誇りとなっているでしょうか。必ず皆さんをそう思う方々いらっしゃることでしょう。それでは、みなさんは誰を望み、喜び、誇りとしているでしょうか。パウロにとっては、信仰に導いたテサロニケの教会こそが、望み、喜び、誇りでした。
しかしこれは、パウロや伝道者達に限られたことではありません。わたしたちにも、自分に託された隣人がおり、委ねられた家族がいるのではないでしょうか。その人が救いに導かれ、あるいはそのきっかけを作り、あるいはその人が信仰生活を熱心に全うしていくなら、それが私の望み、喜び、誇りとする人なのでしょう。
 しかし現実はそう思えないこともあります。ここで大事なのは、「私たちの主イエスが再び来られるとき」と前置きされている点です。地上では私の望み、喜び、誇りとならないように見えても私たちはなお希望を抱くことができます。
 自分が、誰かの望み、だれかの喜び、誰かの誇りとなっているか、あるいは、誰を望みとし、喜び、誇りとしているか、思いめぐらし自分自身は主に喜ばれるように歩み、また一人でも信仰に導き自分の望み、喜び、誇りとしたいとは思われないでしょうか。祈り、チャレンジしましょう。イエス様が再び来られるときに、私たちは歓喜に包まれ、主から栄光の冠を受け取る希望に満ちて主の使命に歩んでまいりましょう。
  『神のことばを受け入れる』
テサロニケ人への手紙第一 2章13節−2章16節
2013年7月7日(日)

 「神の言葉」を真摯に語ったパウロの言葉を、テサロニケの教会のクリスチャンたちも、「神のことば」として真摯に聞き、それを心から受け取り、受け入れたのでした。しかも多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れたのです。
 13節に「神の使信のことばを受けた」「神のことばとして受け入れてくれた」とあります。「受け取る・受け入れる」という語は、「歓迎する」という意味もあり、それを彼らが心から喜んで受け入れたことを表わします。「神の言葉」には力がありますが、「神の言葉」として信じて受け取る者、喜んで受け入れる者のうちで生きて働くのです。
 「働く」という言葉はエネルギーの語源になる語で「力を発揮して活動している」という意味です。「神の言葉」自体に生きた力があるからですが、しかし同時にそれは「信じて」受け入れる者のうちで生きた力となって実を結ぶものでもあるのです。13節最後に「この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」とあります。神様はご自身の言葉によって、わたしたちに生きて働かれます。反対にいえば、神様のみことばなくして神様の働きはありません。
 テサロニケの教会だけでなく、昔々のことだけでもなく、まさに今、この場所において、神様の力が「神のことばを受け入れる」者のうちでエネルギーに満ちて力づよく働くのです。「神の言葉」自体に生きた力があり、かつ「信じて」受け入れる者のうちで生きた力となって実を結ばせるのです。
 今日も明日も、たとえどのような困難な中でも「神のことばを受け入れる」者として、歩んでまいりましょう。