ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年8月]を短くまとめてのせています。

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 『光の子ども』
テサロニケ人への手紙第一 5章1節−5章11節
2013年8月25日(日)

 光と闇、昼と夜、「光の子ども、昼の子ども」と「夜や暗やみの者」という対照が使われます。「闇」や「夜」というのは、神を信じない霊的真理に暗い人々のこと、異教社会のことで、「光の子ども」「昼の子ども」とは、テサロニケ教会や私達を含むクリスチャンたちのことです。
 クリスチャンは、世を煌々と明るく照らす光御自身であるイエス様からの光に照らされ、光の中にいます。突然の再臨にもよい備えをし、喜びを持って待ち望みながら歩みをしていますので、実際に、イエス様が文字通り突然再臨しても、不意を襲われるのではなく、喜びと平安に満ち溢れ、キリストをお迎えすることができるのです。
 6節に「目をさまして、慎み深くしていましょう」とあります。「目を覚まし」というのは、気をつけている、注意している、警戒しているという意味があります。信仰的に気をつけている、霊的に注意し警戒しているということです。「慎み深く」という言葉は、まじめ、真剣、バランスがとれている、よくコントロールされているという意味です。7節の「酔う者は夜酔う」と言う言葉と関連して読むならば「しらふ」とも訳せる言葉です。信仰的に真剣、霊的にバランスがとれていてよくコントロールされているという意味です。
 神の裁きはない、安全だ、平和だという声に惑わされず、「目を覚まし」自分の信仰と主の再臨に、よく注意し気をつけ、みことばと霊的なことに真剣でよくコントロールされてバランスよく歩むということが大切です。具体的にどのように歩むかということに、よくよく注意し、気をつけて真剣にバランスよく歩むという信仰生活が大切なのです。「光の子ども」として「目をさまして、慎み深く」歩んでまいりましょう。
 『慰め』
テサロニケ人への手紙第一 4章13節−4章18節
2013年8月18日(日)

 テサロニケ書が「再臨書簡」と呼ばれる所以の箇所です。テサロニケ教会にあった復活についての誤りを取り除き、信者たちは、救いの完成としての体のよみがえりという素晴らしい希望が与えられていることを教え、テサロニケ教会が、お互いに慰め合い、励まし合い、信仰の道を喜んで歩んでいくように力強く勧めているところです。
 テサロニケの人たちは、先に死んだ人がキリストの再臨を見逃したと勘違いして悲しみに沈むほどに、再臨へ希望を置いていたのです。聖書信仰を持つ私たちも、イエス様の再臨について、十字架、復活と並んで、キリスト信仰の根幹であることを覚えておく必要があります。そしてパウロは「このことばをもって互いに慰め合いなさい」(18)と言います。
 私たちはこのみことば、再臨の希望のみことばをもって慰め合うことができます。再臨とその希望があるからこそ私たちは自分を聖く保ち、互いに愛し合い、ますますそのようにするように、励ましあい、 互いに慰め合うことができるのです。
 私たちは、この再臨の希望の言葉に信頼を置いて歩んでいるでしょうか。悲しみや困難に直面したとき、誘惑に会うとき、再臨の希望の言葉が助け出し、私たちを生かしてくれます。救いの素晴らしい完成としての、世の終わりの体の復活を確実な大きな希望とし、お互いに励まし合い、今の時代の現実の中にあって、これからも信仰の道を日々喜んで歩んでいきたいと思います。
 私たちは気休めの慰めの言葉ではなく、再臨の希望の言葉、真の慰めの言葉をしっかり握って歩み、また互いに再臨の希望にある慰めの言葉を互いにかけあってご一緒に歩んでまいりましょう。
  『さらにますます愛し合う』
テサロニケ人への手紙第一 4章9節−4章12節
2013年8月11日(日)

 テサロニケの教会は本当に言うまでもなく愛を十分に実践していた教会で、あえて何も書き送る必要がないと強調しています。それは自分達の間だけのことだけではなく、マケドニヤ州全体の教会(ピリピ教会、ベレヤ教会)を覚え、愛の実践をしていた教会だったのです。
 そのような教会にパウロは、「さらにますますそうであってください」と付け加えて、これからも、主にある兄弟姉妹の愛の実践に一層励んで歩むように勧めているのです。
 後半の11-12節では「落ち着いた生活」ということと「自分の仕事に身を入れる、自分の手で働く」ということについて教えています。テサロニケ教会の中に、イエス様の再臨ついて誤解する人々が出てきました。彼らは、イエス様は間もなく再臨する、この世は終わりになるのだからと、熱狂的になり、自分の仕事を捨て、お祈りや瞑想に時間を費やしてしまうようになったということです。
 地震や事故、病気など明日がどうなるかも分からないような事態の中に生きている私達も、このパウロの言葉に耳を傾ける必要があります。どのような事態の中であっても、落ち着いた生活をすることに力を注ぎ、仕事、あるいは自分がするべき使命に生きることが大切です。
 さらにますます愛し合うこと、に加えて、日々の一つ一つのこと、仕事、生活、周りの人々との関係において、さらにますます自分を高め、周りを高めるものとなることが必要です。私は信仰者としてもう大丈夫と信じることは大切です。しかしパウロは「さらにますますそうであってください」といいます。罪の生活から離れ、神様に喜ばれる聖い生活を歩んで参りましょう。
  『神を喜ばす歩み』
テサロニケ人への手紙第一 4章1節−4章8節
2013年8月4日(日)

 4章に入りますが、後半は「勧告」あるいは「教え」という要素が強い箇所です。パウロはテサロニケの人々を前半で励まし、そして、このように歩むように、と後半で教え勧めています。
 この箇所ではテサロニケのクリスチャンたちが、異教社会にあっても、神様に喜ばれるために、聖い生活をしていくことを、パウロが力強く勧めているところです。聖いとはここで、倫理的、あるいは道徳的な聖さを意味しています。3節に「不品行」という言葉があります。新共同訳では「みだらな行い」と訳していますが、元々ポルネイアという言葉で、ポルノという言葉の語源です。当時の地中海世界の異教社会においては、結婚生活あるいは、性は乱れたものでした。ですからここで言われる「聖さ」とは特に性的な「聖さ」に対して言及されています。
 キリスト教信仰は、観念や思想ではなく、実践であり生活なのです。今日の私達も、日本の異教社会にあって、目に見えない真の神様に喜ばれる歩み、罪から離れた聖い生活が教えられている箇所です。
 「神を喜ばす歩み」という題をつけました。このテサロニケと現代日本は、異教社会という共通点があります。私達も、罪から離れ、神様を喜ばせる聖い生活を、聖霊様の豊かな力によって歩んでまいりたいと思います。この時代の日本において、神様に喜ばれる生き方をするようにと召されている(7節)ことは、光栄なことです。神様が私達を召されたのは、私達が罪に生きるためではなく、罪の生活から離れ、神様に喜ばれる生き方を日々喜んで歩み続けることであることを覚えましょう。またそれぞれの遣わされている場において神様に喜ばれる生き方を、信仰の力強い証しとして、歩んでまいりましょう。