ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年9月]を短くまとめてのせています。

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 9月19日(日)は特別礼拝でした。
  『心を騒がせないで』
テサロニケ人への手紙第二 2章1節−2章12節
2013年9月22日(日)

 テサロニケ教会では、再臨について誤解し、ある種の熱狂が起こり、再臨だとふれまわる人々によって大きな混乱が生じました。パウロは再臨に先立つ出来事がまず生じることを教え、テサロニケ教会の信者たちが、動揺したり、慌てたりすることなく、落ち着いたよい生活をしながら、再臨を待ち望むように教えたところです。
 2節に「落ち着きを失う」とあります。思ってもみないことを聞いて、心が揺さぶられて、健全な判断力を失うことを意味しています。またこの言葉からタイトルをつけましたが「心を騒がせ」というのは、思ってもみないことを聞いて、気持ちが混乱していることを意味しています。
 今、私たちに再臨の熱狂というような混乱があるわけではありません。しかし、当時の状況と変わらないのは、私たちはなお、神様の裁きを待つこの世界に生かされ、そして必ず再臨があるということ、その前に不法の人が現れ、再臨のイエス様の勝利は揺るがないものの、偽り、不思議、欺き、惑わしにさらされるということです。
 2000年前と同様、福音の真理と偽りとの戦いの中にありますから、私たちは神に敵対していないかどうか、神様に信頼し従っているかどうかをいつも注意して、聖書のみことばに堅く立って歩むように導かれているのです。
 今日の教会とそこに属する私達は、心を騒がせられることが多く起こります。自分のなすべきことを忠実に行い、神様に信頼し、みことばに堅く立って、「心を騒がせないで」落ち着いたよい生活をしながら、キリスト再臨の日を、わたしたちの救いの完成の素晴らしい日として楽しみに待ち、希望をもって歩んでまいりたいと思います。
  『召しにふさわしい者』
テサロニケ人への手紙第二 1章1節−1章12節
2013年9月15日(日)

 テサロニケ第二の手紙を始めます。第一の手紙によって、信仰が成長し、愛も増し加わっていたテサロニケ教会ですが、再び、誤った教えが彼らの間に広まっていたようです。それは、すでに「主の日」が来ている、というものでした。それを正すため、また、主の再臨にかまけて、何も仕事をしなくても良いと考える者を戒めるためにもパウロは、この第二の手紙を書いています。
 11節のみことばからから「召しにふさわしい者」とタイトルを付けました。神様が、テサロニケの人々を召しにふさわしい者としてくださいますように、と祈っています。この召しとは、「苦しみにあう」という召しであり「報いとして安息」を頂くことができるという召しです。
 「報いとして安息」を頂くことができるという召しとは私と神様との平安の関係において、人を恨むことや復讐することを神様に委ねるなど、すべてを委ねるということです。
 「善を慕うあらゆる願いと信仰の働きとを全う」とありますがまさに神様が望んでおられる事は、苦しめる者たちがいても、悪に対して悪で報いることなく、いつまでも善によって応答していくように、ということです。それには、やはり私と神様との平安の関係において、神様に委ねることが大前提となるのです。
 12節に「私たちの神である主であるイエス・キリストの恵みによって」とありますが、私たちの頑張りではなく、主の恵みへの信頼によって、「召しにふさわしい者」となるのです。
父なる神様とイエス様のうちに信頼し委ねて歩み、信仰と忍耐を働かせ、御名を崇め、永遠の生命の道を希望をもって歩んでまいりましょう。
  『聖なるものとして』
テサロニケ人への手紙第一 5章23節−5章28節
2013年9月8日(日)

 23節の祈りは、このテサロニケ書全体のまとめの祈りでもあります。そこから「聖なるものとして」とタイトルとつけました。テサロニケ人への手紙の主題は「再臨」であり「再臨書簡」と呼ばれているとお話しましたが、もし副題をつけるとしたらこの「聖め」です。乱れていたテサロニケの町には特に聖なる者として聖さを保つ必要があったからです。
 私たちに汚れがあるならば、イエス様が現われたときに、その関係は平和ではありません。だからパウロは、テサロニケの人たちが全く聖なる者となるように祈っています。これは、私たちクリスチャンすべてに当てはまることです。主の日が近いことを思うとき、私たちは眠っていないで、目をさまし、聖潔の中で生きるように勧められます。これまでの歩みを振り返り改めて、主に固く立つようにと導かれています。
 聖さは、からだだけではなく、霊とたましいにおいても、すなわち全人格としてすべてが聖く保たれるように、とパウロは祈っています。私たちが勝手に考える聖さではなく、徹底的に聖書に書かれてあることに忠実になり、心にある汚れも、思いにおける罪も主によって聖めていただかなければいけません。
 こうしてパウロは、聖められることを祈りましたが、これは「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」という約束に信頼して歩むということです。私たちはイエス様を十字架にかけて贖ってくださった真実なる愛の神様の約束に励まされ、再臨のときに、まったく聖なる者、傷のない者として立たせてくださる真実な方である神様に信頼して「聖なるものとして」くださることを信じ「聖なるものとして」歩んでまいりましょう。
  『喜び、祈り、感謝に生きる』
テサロニケ人への手紙第一 5章12節−5章22節
2013年9月1日(日)

 16-18節は有名な聖句です。「いつも喜んでいなさい」とありますが、これは神様が私たちにしてくださったこと、すなわち贖いの十字架と復活の恵みを思い、また神ご自身のすばらしさを思うときに与えられます。
 幸せは、自分の周りの状況が良ければ存在しますが、状況が悪ければなくなります。一方、喜びは、たとえ愛する人を失っても残る深い確信です。悲しみながらも喜んでいることすらできます。パウロがこの手紙書いた状況でもありました。私たちが求めるのは気分の上での喜びではなく、厳しい辛さの中にあっても喜ぶことができる喜びです。
 「祈りなさい」とは教会にきて24時間祈っているということではありません。神様をいつも意識して、必要であれば心の中で祈り、人と語っているときにも祈ることです。パウロは、祈りによって、願い事を神に知っていただきなさい(ピリピ4:6)といっていますが、祈りとは自分の心の思いを神様にぶつけ、委ねることです。
 「すべての事について」感謝するには、あらゆる事柄は神様の御手の中にあるという信仰が必要です。私達は、「すべての事について感謝する」ことが、どれほど困難なことか実感しています。だからこそ信仰をもって自分の身の周りに起こっていることはすべて、神様の許しがあって起こっていること、何か目的がある、と知って感謝することが大切です。
 タイトルは「喜び、祈り、感謝に生きる」としましたが、回りの環境や自分の感情ではなく私たちの状態をそのように保つことが教えられています。周りに一喜一憂されるのではなく、変わらない神様のことば、変わらない十字架の恵みと再臨の希望を覚えて、いつも喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝する信仰生活を送ってまいりましょう。