ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年10月]を短くまとめてのせています。

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   『平和の主』
テサロニケ人への手紙第二 3章16節−3章18節
2013年10月27日(日)

 テサロニケ人への手紙の最終回、最後のあいさつで終わります。
 16節では「平和」という言葉も2回も使われて印象づけられています。テサロニケ教会の人々は、教会の内外から悩まされていました。その状況を思いやって、パウロは、教会の外側の人々からの圧迫と迫害が少しでもなくなって平和になるように、また、再臨のことで熱狂している人々による混乱が収束して、教会の内側にも平和があるように祈ったのです。
 聖書に出てくる「平和」とは私たちの考えるニュアンスとは少し違うかもしれません。戦争がないというだけでなく、繁栄とか祝福、健康、救い、という意味も含まれたとても広い意味をもつ言葉です。そして聖書にある「平和」は、私たちが作り出すことはできず、神様のみが真の「平和」を与えることができるのです。困難で体調が悪く貧しいときにも私たちを豊かにする、満ちたらせる、平和を与えるのは神様しかいません。
 改めて私たちは再臨のイエス様、救い主イエス様、十字架のイエス様が、「平和の主」であることを覚えたいと思います。その平和は比較的なものではなく絶対的なものです。一時的なものではなく永遠のもの、いつでもどんな場合でも、あらゆる方法で与えられる決して変わらないイエス様の平和です。イエス様からの真の安心、真の健康、真の繁栄、真の祝福という平和です。「平和の主」イエス様の再臨の栄光と、救いの完成を楽しみにして、わたしたちは、自分にゆだねられた仕事や生活や奉仕をしながら、喜んで日々落ち着いた歩みをしていきましょう。この「平和の主」を信じて、「平和の主」に導かれて、「平和の主」に委ねて、歩んでまいりましょう。
  『たゆむことなく』
テサロニケ人への手紙第二 3章6節−3章15節
2013年10月20日(日)

 この箇所の特徴は「命じる」という言い方です。それは従わない人々がいたからだと考えられます。14,15節で6節の「従わない兄弟たちから離れていなさい」という言葉を繰り返して「交際しないようにしなさい」と教えます。それは「彼が恥じ入るようになるため」だというのです。パウロの言葉に従わず、教会を混乱させている人々が恥ずかしく思い、反省し、悔い改め、落ち着いて仕事をするようになってほしい、それらの人は敵ではない、戒めるべき兄弟だというのです。
  私たちの周りや、私たちの教会には多くの人がいます。教会の内外に限らず私たちは生活の中で、様々なことを言ってくる人がます。そしてどのように対応したら良いかと様々なことを思いめぐらし悩み、苦しむかもしれません。しかしどのような場合でも変わらない部分があるでしょう。それはこの13節「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい」ということばです。
 締まりのない歩み方をする人、仕事をしない人、聖書に従わない人、惑わす人、おせっかいばかりの人、混乱を誘う人、悩ます人、あるいは、異端の教えを持ち込む人、分裂を引き起こす人が私たちの周りにいるのは事実です。どのように対処すべきは祈りつつ、御言葉に導かれて、主に委ねて対応するしかありません。もちろんパウロが言うように離れて、交際しないように、戒めるというのも大事な知恵です。
 しかしそれより大切なのは自分が揺るがされないこと、そして「しかしあなたがたは、たゆむことなく善を行ないなさい」というみことばです。どうぞ「たゆむことなく」信仰と希望の確信と愛の実践に歩んでまいりましょう。
 『神の愛とキリストの忍耐』
テサロニケ人への手紙第二 3章1節−3章5節
2013年10月13日(日)

 パウロが、テサロニケ教会にあてた手紙も終わりに近づきました。
 5節で「神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」と祈っています。「神の愛」とは、罪人である人類の救いのため、御子キリストを惜しみなくあのむごたらしい十字架につけた神様の、神様の計り知れない愛です。
 「キリストの忍耐」というのは、神様の独り子であり神様ご自身であるイエス様が、救いの道を開くため、罪の世界来られ、人々から見る影もないほどさげすまれ、鞭打たれ、人類史上最悪の十字架の死に至るまで耐え忍んでくださった忍耐のことです。
 それを「持たせてくださいますように」というのです。新共同訳では「深く悟らせてくださるように」と訳されています。この訳のほうが私達には受け入れやすいかもしれません。なぜなら、「神の愛」も「キリストの忍耐」も私たちには到底得がたいものだと考えるからです。だからせめて、それを深く悟り、しっかりと受け止めることができるようにというのでしょう。
 しかし私たちはそれを知り受け止めて終わりではありません。神様の愛を目標にして、愛を実践することが私たちの目指すところではないでしょうか。イエス様の忍耐を覚えて私たちも忍耐に忍耐をするというのが私たちの歩みなのではないでしょうか。イエス様が地上での公生涯の間、罪ある者の敵意に耐えられたように、テサロニケ教会の人々も、そして私たちもまた、イエス様の御足の跡に従わなければならないということなのです。どうぞ互いに「神の愛とキリストの忍耐とを持たせてくださいますように」と祈り合って歩んでまいりましょう。
  『堅く立って』
テサロニケ人への手紙第二 2章13節−2章17節
2013年10月6日(日)

 この箇所で、パウロは救いの確かさを教えています。救いは神様の主権的な選びに基礎があり、イエス様の再臨の時には必ず、テサロニケのクリスチャン達の救いは栄光のうちに完成することを力強く教えて、励ましているところです。
 15節に「堅く立って、私たちのことば、または手紙によって教えられた言い伝えを守りなさい」とあります。
忍耐をもって歩むとはどのような歩みでしょうか。あるいは忍耐の中にありながら、救いの確信と喜びの中を歩むことができるのでしょうか。それはパウロたちの教えを信仰にしっかり立って、固く守り続けて歩むことだといいます。苦しいときにこそ、忍耐を働かせるときにこそ、必要なのは、みことばです。
 今日は「堅く立って」と題をつけました。私達クリスチャンが、信仰にしっかり立って、固く守り続けて、豊かな祝福を受けて歩む、信仰の権威ある基準は聖書の教えです。
私達の人生では苦しいことも、つらいことも、悲しいこと、様々な事が生じます。しかし聖書の教えに「堅く立って」、その教えを忠実に守って平安と確信の中を歩むようにとパウロは励ましています。
 この世界は、すべてが崩れ去ります。しかし、全知全能の主権者なる神様の御計画に基づく救いは完成し、信じる者は、栄光の神の国において、イエス様と神様との永遠の愛の交わりに入れられます。だからわたしたちは、安心して、喜びをもって、希望を持って、救いの中に、日々生きていくことができます。この信仰にしっかり立って、聖書の教えに「堅く立って」歩んで参りましょう。