ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年11月]を短くまとめてのせています。

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 『男性への勧め、女性への勧め』
テモテへの手紙第一 2章8節−2章15節
2013年11月24日(日)

 男性に対して、「祈りなさい」とパウロは勧めています。この祈りなさいということにおいては、男性も女性も老いも若きも関係ないはずです。しかし男性には特徴があるようです。「怒ったり言い争ったりすることなく」とあります。ここに男性の論争を好む傾向という弱さの一つが記されています。男性は怒りや争いによって、公の場を乱し、教会の本来の目標である、救いみわざを邪魔して愛から離れ、また、誰かを離れさせてしまう問題を起こしやすい状況だったようです。
 一方女性には慎み深さを教えています。背景にエペソ教会の中にいた、偽教師たちの影響が考えられます。彼女達は控えめさや慎み深さは必要はないと教えられそのようにしていたのではないでしょうか。しかし教会の交わりに支障が出、あるいは教会の外部の人々にも悪い影響を及ぼしていたのかもしれません。
 こういったパウロの指摘は律法的というより、公の場における秩序の問題です。外見に対する気遣いよりはもっと大事なこと、「良い行ない」を飾りをしていくことに気を使うべきだと教えているのです。「良い行ない」とは神様の御心にかなう、そして、人々の益となる行いのことです。
 さてこれらの勧めは、だれかを責め戒めるのではなく、自分のこととして受け止めることが大事です。この勧めを大事にして、落ち着いた祈りの生活をすること、他人に目を向けて比べたり、憎んだりするのではなく、イエス様に目を向けて、静かな心を保つことが大事なのです。
 今週一週間の歩みの中にある様々な出来事の中で、何を第一として歩むべきか覚えて、祈りによる静かで平和な生活を送ってまいりましょう。罪赦されたクリスチャンとして恵み豊かに覚えて歩んでまいりましょう。
 『すべての人が救われて』
テモテへの手紙第一 2章1節−2章7節
2013年11月17日(日)

 1節で「すべての人のため」「王とすべての高い地位にある人たちのため」に祈るよう勧められています。何のためか、それは4節にあるように「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられ」るからです。
 主の祈りで「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。もっと具体的に言うなら、みこころ、すなわち、「すべての人が救われる」ことが、地にもなさせたまえ、すなわち「私たちの周りで起こりますように」ということです。「すべての人が救われて、真理を知るようになる」というみこころを祈る必要があるのです。
 さらにこの「すべての人」には「私」も含まれます。ピリピ2:12に「自分の救いを達成してください」とありますが、私たちはなお、救いの達成のために歩んでいます。「救いの達成」とは良いことをしましょう、というのではありません。私たちは神様の喜ばれる道をいつも選び取るようにし、そうできないときでも赦されていることを覚えてまた神様に立ち返るのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられるのですから、私たちは真理を知り続ける、神様を知ることをますますし続ける、そのような歩みが大切です。
 「すべての人が救われて」と題してお話してまいりました。すべての人と高い地位にいる人もそうでない人も、福音から遠く離れている人もそうでない人も、救われるために祈り、宣べ伝えてまいりましょう。また「すべて」は私たちも含まれます。私たち自身すらもさらに救いを達成するものとして、ますます真理を知り続けるものとして歩んでまいりましょう。
  『罪人を救うために』
テモテへの手紙第一 1章12節−1章20節
2013年11月10日(日)

 パウロは、イエス様の憐れみによって変えられ、その務めを果たしてきました。しかし、元は「神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者」(13節)であったのです。イエス様はパウロをあわれみ、赦し、さらに、恵みを与えて、福音を宣べ伝える使徒の務めにつかせ、強くし、忠実に歩む者としてくださったのです。15節でパウロは「私はその罪人のかしら」とまで言い切ります。この言い方にも、今の自分があるのはすべてイエス様のあわれみであった、という思いがよく表されています。
 今日のタイトルは「罪人を救うために」としましたが、イエス様は「罪人」を救うためであって、あわれみを受けなければならないと自覚するものを救うために世に来られた、十字架は神様のあわれみの最たるものだと改めて覚えさせられます。
 さて、18節でテモテを励まして「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くため」だと言います。19,20節では、偽りの教えを吹聴する者たちに、対決的な姿勢を取ることを命じています。教会もクリスチャンも倫理や道徳に従うからではなく、一人一人が御言葉による教えと、正しい良心を保って、信仰の戦いを勇敢に戦い抜く必要があるのです。
 イエス様は、罪人である私たちを救い、ご自身に仕えることができるように変え、強くしてくださいます。そのためには自分の罪深さと向き合い、神様のあわれみをさらに求め続けるのです。必ず大きなあわれみと恵みをもって応えてくださいます。イエス様が「罪人を救うために」来られ「罪人を救うために」十字架にかかってくださったからです。
 あわれみ深く恵み深いイエス様に人生をゆだね、正しい良心によって信仰の戦い勇敢に戦い抜いてまいりましょう。
  『栄光の福音』
テモテへの手紙第一 1章1節−1章11節
2013年11月3日(日)

 テモテへの手紙をしばらくご一緒に読んでまいります。
 パウロはテモテに対して2節で「恵みとあわれみと平安とがありますように。」と挨拶を書いています。他の教会宛ての手紙では、「恵みと平安」でしたが、ここでは、その間に「あわれみ」があります。あわれみとは、罰などを受けるに値する者を、受けないで済むようになっている状態です。神のさばきを受けなければいけないのに、受けないでいる。これが「あわれみ」です。パウロは、自分自身が福音宣教者として、使徒として生きていくために、もっとも必要に感じていたのはこの「あわれみ」でした。神様の深いあわれみが、主の奉仕者を奉仕者として立たせてくれる源泉があるのです。
 このように、この箇所からはパウロは「神のあわれみ」を強く意識して書いていることがわかります。
 今週のタイトルは11節から「栄光の福音」としました。何が栄光か、それは受け取った私達が栄光なのではなく、あわれみ豊かにお与えになられた神様の栄光の福音なのです。そして私は、私たちはその祝福に満ちた神様がお与えになった「栄光の福音」を委ねられたもの、任され、託された者達なのです。
 私たちに「栄光の福音」を委ねられたのは、議論し合うためにでも、争い合うためにでも、だまし合うためにでもありません。5節にあるように、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標として「栄光の福音」を委ねられたのです。
このあわれみ深い、恵み豊かな神様の「栄光の福音」を委ねられた者という意識をもって、今週も共に歩んでまいりましょう。