ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2013年12月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


 『感謝が満ちあふれる』
コリント人への手紙第二 4章15節−4章18節
2013年12月29日(日)

 2013年を終わろうとしています。1年を振り返ると悪いことばかりに思いがいきがちで、感謝があまり出来ないと思われていないでしょうか。

 ザアカイの箇所を読みながら「感謝が満ちあふれる」ということを考えました。ザアカイは自分の名前呼ばれて「じぇじぇじぇ」ですね。いそいでいちぢく桑の木から降りてきて、イエス様を「おもてなし」しました。そしてすかさず「今でしょ」とばかりに罪を告白し償いを宣言します。その償いは「倍返し」ならぬなんと4倍返しだったのです。

 ザアカイは決して信仰深い生き方をしてきた者ではありません。しかしそんな自己中心のザアカイの家にこそ泊まりたいとイエス様は願われたのです。イエス様は、ザアカイに「あなたの家に泊まることにしてある」と言われたように、皆さんの内に泊まりたいと願っておられるのではないでしょうか。自己中心性の塊、鐘の亡者といえるザアカイは、イエス様に出会い、イエス様と交わり、イエス様に愛され、受け入れられて「感謝が満ちあふれる」人生に変わるのです。

 イエス様は多くの恵みをこの1年間確かに与え続けて下さいました。私たちは感謝がなかったと考えるのではなく、何より、身代わりとなってくださったイエス様が我が家、我が心のうちに住んで、ともに歩んでくださるということを覚えて感謝をささげたいと思うのです。

 そして、やがて来る2014年も、このお方がいつも共におられ、私たちを支え、導いて下さるので、2014年の1年も、感謝に満ちあふれる1年であることが約束されているのです。

 どうぞ我が心のうちに住んで、ともに歩んでくださる十字架のイエス様とともに感謝をもって新しい年を迎えて参りましょう。
 『栄光が、神にあるように』<クリスマス礼拝>
ルカの福音書 2章1節−2章14節
2013年12月22日(日)

 イエス様が生まれた飼い葉おけは、最も低き姿です。その救い主の誕生が「いと高き神の栄光」が現される、また戦争、戦いを表す「軍勢」が「平和」を告げるという、このような人間の思考を超えた神様のすばらしさが現わされている詩です。
 天の軍勢は最初「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」と賛美しました。天地万物を作られた神様の栄光、そして、神様の側から勝手し放題の罪深い私たちを救おうとしてくださって神であられるお独り子イエス様を遣わしてくださった神様の栄光を賛美したのです。人の力では何も出来なかったこの世界に救いをもたらすという神様の栄光を褒め称えて歌ったのです。だから何も出来ない、何の力もない羊飼いを民全体のための大きな喜びの知らせを広めていくために、選ばれたのです。
 次に「地の上に、平和があるように」と賛美しました。この当時、ローマ帝国は広大な領域を支配していました。「ローマの平和」が築かれていましたが、圧倒的な軍事力によって支配され、迫害されていました。ローマの平和は、一握りの人々だけのものにしかすぎなかったのです。しかし、「地の上に平和があるように」と御使いの言った平和は、ローマのもたらした平和とは違います。聖書の語る平和とは、神様との平和を築くということです。罪の問題、死の問題、悩みや嘆きからの回復された、神様との関係が完全に修復された、神様の怒りから解放された状態を表す言葉、それが聖書の言う「平和」なのです。
 神様の一方的な救いの恵み、罪の赦しと永遠のいのちが与えれたこと、神様との平和がもたらされたことを感謝し賛美して歩みつづけてまいりましょう。
  『平和の道』<アドベント(待降節)第三週>
ルカの福音書 1章67節−1章79節
2013年12月15日(日)

 この箇所はバプテスマのヨハネが生まれた時に、父ザカリヤが歌った歌です。この歌は、旧約時代最後の預言歌であり、新約時代最初の預言歌であるといわれています。何が預言されているかというと、救い主の到来は昔から預言されていたということ、その救い主には道備えをするものが現れるということ、そして救い主はどういうお方で何をするかということについてです。
 78節に「暗黒と死の陰にすわる者たち」と出てきます。これは特別な人々のことを指しているわけではありません。聖書が示す、人間の姿です。極端に思うかもしれませんが、人は必ず死にますし、自殺などの特殊な場合を除いてはいつ死ぬか分からないのです。いつ死ぬか分からないということはいつも死の陰にいるということになるでしょう。しかし神様は、問題だけを指摘するのではなく、そこに解決の道を示してくださるのです。聖書はその神様のすばらしい良き知らせの書物です。暗黒と死の陰にすわる者たちを照らす方が来られた、というニュースを告げ知らせています。それこそ、クリスマスのニュースです。
 79節に「われらの足を平和の道に導く」とあります。「平和」とは私たちを造られ、この世界のすべてを支配しておられる神様、愛と恵みに富んでいるまことの神様と私たちとのすばらしい関係を表す言葉です。
 クリスマスは、神様の深いあわれみによってもたらされました。暗闇に座していた私たちを立ち上がらせ、平和の道に導くために、イエス様が来てくださったのです。
 ザカリヤが賛美したように、私たちも、心から主を賛美し、主に感謝し、クリスマスの恵みを思いながら、平和の道を歩んでまいりましょう。
  『しあわせ者』<アドベント(待降節)第二週>
ルカの福音書 1章46節−1章55節
2013年12月 8日(日)

 イエス様の母マリヤはその賛歌「マグニフィカト」の中で「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」と歌っています。しかしそれは決して、すべて順風満帆な生涯を送ることができる、という意味ではありません。マリヤの生涯は、本当に周りから見てしあわせ者と思われるような生涯だったのでしょうか。 
 夫となるはずのヨセフに疑われるような出来事としての懐妊。身重の状態にも関わらずローマ帝国の人口調査の命による大変辛い長旅。泊まる場所のない状況と家畜小屋での出産。そこに駆けつけたのは、当時、社会からほとんど相手にされなかった羊飼いたち、そしてユダヤ人が嫌っていた異邦人の博士たち。またその地方を支配していたヘロデ王のねたみによる二歳以下の男の子を虐殺命令とエジプトに逃げなければならない状況。おそらく夫のヨセフのは若くして死んでしまっただろう事実。代わって一家の大黒柱であった長男イエス様の宣教活動による不在。そして極めつけはその愛する我が子イエス様の逮捕、そして十字架。
 このようなマリヤの人生、いったいどこが「しあわせ者」なのでしょう。その生涯は波乱に満ちていましたが、主の業を一つ一つのことを心に留め、主にゆだねて歩んでいる人でした。場面、場面では、恐ろしい思い、この上なく悲しい思い、乗り越えられないように思える苦しい思いばかりだったかもしれませんが、あらゆる場面で彼女は主に心を向け、主に委ねるのです。
 私たちも委ねて歩む幸い、神様に任せることのすばらしさ、私たちの信仰の真髄は神様に期待して神様に明け渡すこと、と覚えて「しあわせ者」としての人生を歩んでまいりましょう。
  『確かな希望』<アドベント(待降節)第一週>
詩篇 85篇1節−85篇13節
2013年12月 1日(日)

 今年のアドベントとクリスマスは、様々な詩を通してご一緒にイエス様の誕生を祝いたいと思います。今回は救い主の誕生が唯一の希望であった旧約時代を覚えるために詩篇からお話します。
 この詩篇85篇はバビロン捕囚から帰国して間もない頃のイスラエルの祈りの詩です。イスラエルがバビロンから帰還したのは紀元前520年頃と考えられていますがその時代を背景としています。
 帰還の喜びから始まります。しかし、喜び勇んで帰った捕囚の民を待っていたのは、現実でした。それは期待を裏切るものだったのです。喜びはさめ、つぶやき始めます。そのつぶやきが5、6節です。しかし彼らは信仰を持って希望を語りますがそれが8節以下です。信仰とは、どのような現実であれ神様からの試練として受け入れていくことなのです。神様はその現実を変えてくださると12節で歌われています。希望を確かに持っているからです。
「確かな希望」と題をつけました。現在の状況がいかに厳しくとも、将来の救いを待望する確かな希望を持ち続ける人々、それがクリスチャンです。イエス様は私の救い主と信じて生きる事は「確かな希望」を持って生きることです。「確かな希望」は永遠のいのちが与えられたこと、この世界を造られたまことの神様との親しい交わりを回復させてくださったという約束です。神様のひとり子が罪深い私たちのところに、人となってきてくださり、世界を変え続けてくださり、世の終わりに、全てを新しくしてくださるという希望は「確かな希望」なのです。
 どうぞこのクリスマスを待ちわびるアドベントに「確かな希望」を心に抱いて力強く歩んでまいりましょう。