ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年1月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


 『感謝して受けるとき』
テモテへの手紙第一 4章1節−4章5節
2014年 1月26日(日)

 4章では、エペソ教会の人々の教会生活が整えられるために、異端の惑わしなど、気をつけるべきことを指摘し、イエス様を信じて歩むことを教えている箇所です。この箇所は、特に背教に対する警告がかかれています。
 タイトルを「感謝して受けるとき」とつけました。この箇所では特に食べ物に関して言われているのですが、食べ物に限らずもっと広い意味でとらえることが出来ます。神様は私たちに環境を与えてくださり、周りの人々を与えてくださり、性格や能力や賜物を与えてくださり、信仰といのち、イエス様との出会いを与えてくださったのです。ですからたとえ試練であっても「感謝して受けるとき」捨てるべき物は何一つない、というのが私達の信仰であり、私たちを祝福に導くキーワードなのです。
 聖書を読むとか伝道するというような、一見良い事であっても、それが自分の心をともなっていない義務的なもの、神様のみことばへの信頼なく、神様への感謝の祈りのないものとなっていれば、それは良いものではなく、むしろ罪でありえるのです。
反対に無駄と思えたり、罪悪感を感じるようなこと、例えば休息や睡眠といったことも、神様が必要に応じて導いてくださるのですから感謝して休み、感謝して働き、感謝して眠り、感謝して起きる必要があるでしょう。
 私たちは日々様々な経験をします。その中で「できればない方がいい」と思うようなこともあるかも知れません。しかし、「感謝して受けるとき」神様がくださるものには何一ついらないものはない、ということを覚え信仰を働かせて、感謝に満ちた日々を過ごして参りましょう。
 『神の家で』
テモテへの手紙第一 3章14節−3章16節
2014年 1月19日(日)

 「監督への勧め」「執事への勧め」題して3章をお話してまいりましたが今日の箇所はそのまとめといってもいいでしょう。3章のテーマは「神の家」つまり教会です。私達が礼拝をささげ、賛美をささげ、祈りをささげ、交わりをするこの現実の教会のことについて教えられています。
 しかし、特別な教えでもなく、落ち着いて地味、あるいは義務的な印象を持たれたかもしれません。それは「神の家」の主役が神様ご自身だからです。「神の家でどのように行動すべきか」つまり、そこを治め、そこに住む人たちは、そのような安定して神様を中心とする人が用いられるのです。またへりくだった態度が必要です。「通りよき管」という表現があります。神様から来る恵みや栄光、平安や祝福といったものをそのまま人々に伝え、共有する人が、神様に喜ばれ用いられる人なのです。
 私達も「神の家でどのように行動すべきか」を知っておく必要があるでしょう。3章7節には「教会外の人々にも評判の良い人」という表現もありましたから、教会でだけ良い態度ということではありません。生活において「どのように行動すべきか」が問いながら歩む事はとても大切なのです。
 また「神の家」は、このようにキリストが宣べ伝えられ、その真理が保たれているところです。そこに属する私たちは地味な歩みではありますが、主の輝きを示していくことが求められているのです。教会は神様がこれを建て、所有し、住まわれる所といつも覚えておくことが大切です。そうすれば、そこでとるべき行動はおのずと決ってきます。
教会は、真理の柱また土台であり、生ける神の教会であることを覚え、神様に喜ばれる信仰生活、教会生活を送ってまいりましょう。
  『執事への勧め』
テモテへの手紙第一 3章8節−3章13節
2014年 1月12日(日)

 先週の「監督への勧め」に続いて、パウロがテモテに、教会の執事という立場の人の基準を示して教えている箇所です。
 当時牧師は、教会で神の言葉を語ることによって養い、監督は信仰の群れが喜んで信仰に歩めるように治め、「執事」は貧しい人や病の人など弱者への愛の奉仕や献金の管理などを行っていたようです。ここに出てくる執事は当時の役職の一つですが、他人事とせずに自分に当てはめて読み、特に意味としては「仕えるもの」の心構えとして読みたいと思います。また、教えられていることが満たされていなくてもただ落ち込むのではなく、それらを目指して歩むということでよいと思います。
 この男性執事について7つの条件、婦人執事について4つの条件が述べられています。共通するのは「謹厳」な人、あるいは「威厳があ」る人です新共同訳では「品位のある人」と訳されています。人びとから尊敬される人ということでしょう。非難されず、自制心があり、忠実な人、良心的で信仰的な人というような他の条件をも満たしている言葉なのではないでしょうか。
 13節にありますように、私たちがそのような執事の条件を満たそうとして歩むならば必ず教会のかしらイエス様からの豊かな祝福があります。教会のために尽くした人として尊敬される立場が与えられ、神様も喜んでくださいます。また、奉仕を通じて、前以上に大きな確信をもって神様に親しく近づくことができるようになります。
私たちは名誉ある神様のお働きをする時に、必ず素晴らしい祝福も与えてくださっています。私たちは喜んでイエス様からのお働きを受け止め、祝福を受けながら歩んでまいりましょう。
  『監督への勧め』
テモテへの手紙第一 3章1節−3章7節
2014年 1月 5日(日)

 パウロがエペソ教会の牧師に任命されたテモテに、教会の監督という立場の人の基準を示して教えています。
 「すばらしい仕事」である監督には条件あるいは資格または、基準があり15挙げられています。この箇所を読んでいくときに、監督者だから牧師や役員に対してであって自分には関係ない、と読むのではなく神様と神様の民に仕えるように召されている私達クリスチャンにはすべて当てはまるものとして読んでいただきたいと思います。
 第一に「非難されるところがなく」とあります。新共同訳では「非のうちどころがなく」と訳されていますが、完全無欠という意味ではありません。つまり欠点がないという意味ではないということです。そんな人はひとりもいません。この意味は「そしられることがない」とか「批判されることがない」ということを表します。人々から批判されることが特にないこと、人々から特にそしられることがないことを意味します。これは単に15の項目が挙げられているうちのひとつではなく、第一番目に来ていますので、監督の資格を代表して一言で表しているとも考えられます。また第15の勧め、最後の勧めは「教会外の人々にも評判の良い」ことですが、このこととも関連しています。教会の中だけではなく、信者でない人々との交わりにおいても、非難、中傷のない人であることを表しています。
 監督であるとかないとか、リーダーシップがあるとかないとか、そういうことだけでなく、一人一人がこれら「監督への勧め」の一つ一つを受け止め、自分自身を良く見張って、神様に喜ばれるよう歩んでいこうではありませんか。