ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年2月]を短くまとめてのせています。

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 『満ち足りる心』
テモテへの手紙第一 6章1節−6章10節
2014年 2月23日(日)
 いよいよTテモテの最終章に入ります。この箇所では、奴隷、偽教師そして金銭について語られています。
 6節に「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道」とあります。ここから「満ち足りる心」とタイトルをつけました。人の欲望は、きりがありません。欲望のために、人生を破滅させてしまうこともあります。聖書は自分の欲望をコントロールし、ある適度なところで満足するということを知るように教えています。
 クリスチャンの人生の目的は、お金や富や財産にあるのではありません。ウェストミンスター小教理問答第1問で「私達の人生の目的が、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶこと」にあると教えられている通りです。お金も必要ですが、お金を人生の目的とはしないのです。もちろん金銭欲だけでなく、欲そのものにとらわれないように自分をコントロールすることが必要です。ある線で満足するということを覚えることがとても大切です。
 7節に「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」とある通りです。パウロが教えるように、信仰によって満足するということを知ることが大切です。神様に心から感謝し、「満ち足りる心」を持って歩むその姿勢が、人生をどれほど健全にしてくれるかは計り知れません。
 物や情報、誘惑の氾濫する時代にあって、私たちも、自分をよくコントロールして、神様の御名と教えとがそしられないため、いや、むしろ神様の栄光をあらわされるため、神様を永遠に喜んで、いつも「満ち足りる心」を持って歩んでまいりたいと思います。
 『みことばと教えのために』
テモテへの手紙第一 5章17節−5章25節
2014年 2月16日(日)
 パウロはこの5章6章でテモテに具体的なアドバイスをしています。今日の箇所では具体的に長老について、あるいは長老に対してテモテが取るべき態度や取り扱い方について書かれていました。
 「みことばと教えのために」とタイトルをつけました。パウロは「みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです」と言っていますが、私達は教会において、信仰生活においてこの「みことばの教え」が中心です。何よりも大切です。
この「みことば」の働きの為にほねおっている人に対して敬意を払うことは大切ですが、一人一人がこのみことばと格闘し、その教えを聖書から引き出して、それをクリスチャンであっても、ノンクリスチャンであっても、伝えていく事は大切なことであり、私達に託されていることだと覚えましょう。
 前回やもめについて、そして長老についてという箇所が連続しています。当時エペソ教会内には、やもめや長老の取り扱いについて不満や問題が出ていたのでしょう。教会は人の集まるところですから、人間関係の問題が起こる事はやむをえないでしょう。しかし、教会は「みことばと教えのために」に立てられている所であることを決して忘れてはいけません。様々な問題の解決もみことばにあります。数々のみことばと、多くのイエス様の教えに支えられて、私達は信仰の歩みを全うすることが出来るのです。
 私達は神の家族として、互いにみことば教えを分かち合い、一人一人が聖書のみことばと格闘して自分のものとし続け、またそのみことばを宣べ伝えていく責任を今週も果たしていけたら幸いです。
 『神の家族関係』
テモテへの手紙第一 5章1節−5章16節
2014年 2月 9日(日)
 「神の家族関係」という違和感のあるタイトルをつけました。これは「神の家族」つまり教会における、「家族関係」つまり教会内で人間関係について教えているので、「神の家族関係」としました。
 1、2節には目上を父親、母親のように、また若い者に対しては兄弟、姉妹のように思いなさいとあります。具体的には「愛し敬う」ということです。パウロがテモテに教えているように、私たちも教会の中で、互いを父親、母親、兄弟、姉妹として敬う思いと愛情を持って互いに接する必要があるでしょう。これは相手に求めるものではなく常に自分から行い、自分が努力すべき事柄です。
 またやもめについての部分では非常に実際的なことが書かれていましたが、私達の時代や社会、教会とはあまり関係ないことのようにも思えます。しかし、私達の時代でも「道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者」が起こる可能性は決して低くありません。現場の実際の問題から教えられ続け、事前に策を講じておくことは大切です。
もちろん今日のやもめの箇所からも普遍的な学びをすることができます。たとえば私達には常に誘惑があること、そこから遠ざかるべきこともそうですし、知恵深く様々な問題に対処していく事が大切だということもそうです。
 教会が神の家族であるなら、その家族に対する相応しい態度を考えることが大切です。弱いから助ける、というだけではなくその人のためになるように助け、また神様に喜ばれ神様に用いられるように助けることが大切なのです。私達は互いに神の家族として、良い人間関係、適切な家族関係を願いそのように努めて歩んでまいりましょう。
  『立派な奉仕者』
テモテへの手紙第一 4章6節−4章16節
2014年 2月 2日(日)
 4章に入り、惑わしなど気をつけるべき存在を指摘し、正しい教理を教え、敬虔に歩むようにとの個人的な勧めが書かれています。
 タイトルを「立派な奉仕者」としました。これは誰かの奉仕をすることが大切とかボランティア活動をしましょうとか、奉仕の精神が大切ですということではありません。まず覚えなければならないのは、「キリスト・イエスの奉仕者」となるということです。
パウロは、そのキリスト・イエスのりっぱな奉仕者となるために必要なのは、「教え」だといいます。神様のみことばと祈りの生活こそが大事であるというのです。神様のみことばを教える務め、イエス様の福音を告げ知らせていく勤めが、牧師であるテモテに与えられているように、今日の教会に、そして私たちにも与えられています。この「教えの務め」によって、教会は成長するのです。
 ここに出て来る「信仰のことば」とは、私たちが日々みことばによって養われて生まれてくることばです。またテモテは幼いときから母と祖母によって聖書のみことばによって成長してきましたので「あなたが従って来た良い教えのことば」もというのもやはり聖書のことばなのです。イエス様の奥義が真実であり、聖書の教えそれ以上のものはありません。
そのために偽り、俗悪なものを避け、敬虔のために自分を鍛練し、みことばを教えそこから学び、また命じられていることを守るのです。そしてことば、態度、愛、信仰、純潔においても模範となるようにし、賜物を用い心砕いて、よく気を付け、それを続けるということです。
 どうぞ、私たち一人一人もテモテに語られているようにキリスト・イエスの「立派な奉仕者」として歩んでまいりましょう。