ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年3月]を短くまとめてのせています。

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   『いつもイエス・キリストを』
テモテへの手紙第二 2章8節−2章13節
2014年 3月30日(日)
 「いつもイエス・キリストを思う」3つのポイントです。
 1.永遠の昔からの神様の救いの計画を思い、預言の通りに救い主が与えられたこと、この方以外には救いはないことを思う。
イエス様は預言されていた通り「ダビデの子孫」として生まれた、唯一の救い主です。使徒の働きにこう書かれています。「この方以外には、だれによっても救いはありません。」(使徒4:2) 私たちが罪や死から救われるのは、救い主イエス様の他にはないということを覚えましょう。
 2.ことばをもって世界を造られ、そのイエス様が語られたみことばを思う。
ヨハネの福音書の最初にイエス様がこう紹介されています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1) この方はことばであり、言葉を持って世界を創造され、世界を支配しておられることを覚えましょう。また福音書には、イエス様の永遠のみことばが記されています。どうぞ聖書のことば、イエス様のみ言葉を心に蓄え、いつもイエス様のことばを思い出しましょう。
 3.イエス様の十字架と復活を思う。
「死者の中からよみがえった」とありました。春には受難週とイースターを覚えまた毎月、聖餐式を行ないます。それはすべて、イエス様の十字架の死と復活を覚えるためです。Tコリントにこうあります。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Tコリント1:18) 十字架と復活は神の力なのです。
 どうぞ「いつもイエス・キリストを」思って歩んでまいりましょう。 
  『恵みによって強く』
テモテへの手紙第二 2章1節−2章7節
2014年 3月23日(日)

 迫害の故に人はパウロから離れ、違った教え、偽りの教えが入り込んだ教会は非常に困難な時代の手紙です。1章に続いて2章でもパウロは恐れや、疲れなどによって、気弱になっていたエペソ教会の牧者テモテに激励のことばをかけて励まし神様の力によって、福音を語るように促しています。
 1節で「キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」といいます。「強くなりなさい」という言葉は、もともとは、「強くされなさい」という受け身の言い方で、自分自身の力で強くなるというのではなく、神様から与えられる霊的な力によって強くされることが表わされています。強さや愛、私たちのよいものの起源は私たちにではなく神様にあるからです。私たちを強くするのは、神様の恵みのみです。私たちが弱まっているときに、もっと祈らなければいけないとか、もっと伝道しなければならないとか、私たちの行ないが強調されるのではなく、神様がイエス様にあって行なってくださった十字架の恵み、神様の愛が強調されなければいけません。神様の前で恥ずかしくない証し人として立つことができるのも、この「恵み」によってなのです。
 私たちも、聖書の励まし、神様からの力によって強くされ、苦労の中でもめげずに、その使命を全うしてまいりましょう。その使命とは私たちが頂いた福音を伝える、継承していくということです。わたしたちは、「兵士」のように苦労をものともせず命令に従い、「競技選手」のようにみことばの規定どおりに、「農夫」のように主からの報いを期待して、神様が励ましてくださる様に神様の十字架の愛と「恵みによって強くなり」神様からの使命に歩んでまいりましょう。
 『ゆだねられた良いもの』
テモテへの手紙第二 1章9節−1章18節
2014年 3月16日(日)
 13節に「私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」とあります。「私を真似なさい」というのではなく「健全なことば」を手本にするのです。つまり聖書をいつも手に持って信仰の指針、生活の指針、永遠のいのちのガイドラインとして、用いること、つまりみことばに従って生きなさいと勧めています。そして「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって」とあります。怒りや批判で真理を語るのではなく、あくまでも、キリスト・イエスにある信仰と愛によって、語ることが大切なのです。
 14節にあるようにタイトルを「ゆだねられた良いもの」としました。第一の手紙でも、「ゆだねる」という言葉が何度か出てきましたが、パウロは、ずっと神様のみことばを人々に、そしてテモテに教え、「健全なことば」をテモテに、そして私たちに至る後世にゆだねると言っています。
 「ゆだねられた良いもの」とは「キリスト・イエスにある信仰と愛」であり「健全なみことば」であり、栄光の福音であり、選びの恵みであり、宣教の使命であり、証しの務めであり、平和の言葉・和解の言葉であり、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことです。そしてこれは、「私たちのうちに宿る聖霊」によって守ることができます。律法主義的な守り方ではなく、聖霊が神のみことばを私たちにお語りになるようにして、それをしっかりと守っていくのです。
 いのちの約束をイエス様が与えて下さっています。聖霊によって、神様の力によって生きるようにと示されています。自分たちの行ないではなく、神様の選びのご計画と恵みによって生かされていることに感謝して歩むことが大切です。健全なみことばを手本とし私達にゆだねられた良いものを、うちに宿る聖霊によって、守り続けてまいりましょう。
 『力と愛と慎みとの霊』
テモテへの手紙第二 1章1節−1章8節
2014年 3月 9日(日)
 テモテへの手紙第二は、第一の手紙よりさらに信仰から離れていく者たちが多く出てくるのが特徴です。教会の一部が偽りの教えにだまされるというより、教会そのものが偽りの教えの中に入っていくような状況です。聖書では、終わりの時には背教が起こることが預言されていますが現代の私たちも同じ状況です。終わりの時に目を覚ましていなければ、信仰がゆがみ、多くの者が離れていくことでしょう。その中で、どのようにして信仰の戦いを勇敢に戦うべきなのか、どのように主によって支えられていくことが大切なのかというのが重要なポイントとなります。
 私たちは、自分たちの力でこの信仰の戦いを戦うことはできません。御霊の力、助け主である聖霊の力によるのです。私たちがいかに聖霊様により頼むことができるのか、それが終わりの時に問われてきます。
 「力と愛と慎みとの霊」というタイトルをつけました。聖霊なる神様は、人を、おくびょうにして、その人が何もできなくさせてしまうことはありません。聖霊なる神様信仰を保ち続ける力また、福音宣教を実践させる力を与えます。また、神を愛し、互いに愛し合うことができるようにしてくださっています。また力に満ちていても傲慢になるのではありません。慎みとは新共同訳では「思慮分別」と訳されていますが罪に陥らないように自分をよく制御する力、慎むことを聖霊様が教えてくださるのです。
 一人一人が神様から「力と愛と慎みとの霊」を頂いています。ですから主をあかしし、福音を恥じとせずに、誇りを持って歩み、福音のための苦しみをも受けながらも「神の賜物を、再び燃え立たせて」神様からの使命、福音宣教の使命に、聖霊の力に支えられて歩みましょう。
 『信仰の戦い』
テモテへの手紙第一 6章11節−6章21節
2014年 3月 2日(日)
 テモテへの手紙第一の最終回です。
12節に「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」とあります。福音とはイエス様を信じて、永遠のいのちを持つということですが、いつの間にか、私たちは、それが天国行きの切符であるかのように考え、その意味する重大なところを忘れてしまいます。信仰を保つということは、それ自体が戦いであり、また永遠のいのちを持って生きることも、それ自体が戦いの連続です。
教会から離れ、信仰から離れて、世の人と何ら違いがなく生きている人もいますし、教会にずっと通いながら本当は救いの喜びが薄れ、イエス様にある新しいいのちから離れてしまっているという状態の場合もあります。本当に、イエス様との生き生きとした関係を、長いこと保っていることは、簡単なようで実はとても難しいのです。
今回は「信仰の戦い」とタイトルをつけましたが、そのような生き方はつらい、つまらないと思われるかもしれません。しかし「信仰の戦い」を戦い抜く、「敬虔に生きる」ということこそが大きな益をもたらします。なぜなら「信仰の戦い」を勇敢に戦う人生こそが、イエス様との生き生きとした関係を、保ち続ける秘訣だからです。その「信仰の戦い」に生きる力すら主イエス様から来るのですから。
私たちは「信仰の戦い」に耐え抜けるその力をも、主イエスから与えられると信じることが大切です。イエス様の十字架から目を離さず、希望をもって信じて永遠のいのちを保つという信仰の戦いの中で生きることが私達の使命なのです。私達に与えられる永遠の命の素晴らしい完成を目指し、ともに喜んで「信仰の戦い」に歩みましょう。