ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年5月]を短くまとめてのせています。

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  『主はともに』
テモテへの手紙第二 4章9節−4章22節
2014年 5月25日(日)

 厳しい牢獄生活、そして処刑を前にしたパウロが書いた最後の手紙の最後の部分です。愛弟子テモテには、厳しい状況であっても忠実に信仰に歩むように励まし教えている手紙です。
 17節に「主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」とパウロは言います。主はパウロに何度も現われてくださいました。たとえば自分の召しを疑ってしまうような出来事、がっかりするような状況の中で主は幻によってパウロを励まし(使徒18:9-10)てくださいましたし、後悔、失望がある様なときにも「勇気を出しなさい。」(使徒23:11)といってパウロと共に立ち力を与えたのです。
 私たちも同様に人生の中の最悪と思える時にも主はそばに立って力を与えてくださるのです。いや、主が共にいて宣教の働きへと励ましてくださらなけらば私たちには何の力もありません。確かに信仰に忠実に、そして神様からの使命に取り組もうとするとき、失望、孤独、迷い、疑いを感じる深い闇を経験します。しかし、みことばは、そのような一人になってしまったときにこそ、主がともにおられることを強く感じさせてくれます。そこには決して変わらない確かなみことばがあるのです。
 主は決して私たちを見捨てず、ともにおられることを、強く確信して歩み、過ごして参りましょう。マタイの大宣教命令の最後にはこうあります。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)
 主イエス・キリストが、いつも、わたしたち一人ひとりのそばに立って、必ず、力を与え、強くし、励ましてくださることを覚え、信仰に忠実に、神様からの使命に喜んで歩んでいきましょう。
  『御国を思って』
テモテへの手紙第二 4章1節−4章8節
2014年 5月18日(日)

 4章ではパウロはこれまで以上に自分の最後、そして終わりの時を意識しています。タイトルにもしましたが、1節の「御国を思って」というのもパウロが御国すなわち神の国、天国に思いを馳せていることが分かります。パウロは今、自分が天の御国の中に入ろうとしていることを知っているからです。彼は死刑を恐れていません。むしろ彼が恐れているのは、神様の審判です。自分が神によって、どのような審判を受けるのか、ここに焦点が置かれています。今、御国に入るのを目の前にして、御国が現実のものとして彼に迫ってきています。
 そのような中でパウロはテモテに「みことばを宣べ伝えなさい」と命じます。宣べ伝えるようにといわれているのは「みことば」です。これは神様からの使命であり私たち一人一人の務めです。この務めによって、神様から報いが与えられます。
 この箇所でパウロは死を直前にして、私たちをも励ましています。ゴールを思い描いて、あるいは目標をいつも掲げながら、または目的を忘れずに、という表現でもいいでしょう。今日のこと、明日のことを思うことは大切です。悩み事に煩わされることもあるでしょう。楽しいことを描きながら歩む事は悪くありません。しかしゴールであり、目指すべきところは御国です。それをいつも思いながら過ごすことは大切です。それはいつも神様を恐れ神様のさばきを意識しながら、あるいは神様の報いを期待しながら歩むことともいえるでしょう。
 私たちは、いつも「御国」を思って物事を選び、いつも「御国」を思って決断し、いつも「御国」を思って勇敢に戦い、いつも「御国」を思って走るべき道のりを走り通して参りましょう。
 『整えられた者となる』
テモテへの手紙第二 3章10節−3章17節
2014年 5月11日(日)

 15節後半にとても大事なことが書かれています。聖書はイエス様に対する信仰による救いへと、読む人を導びくようになっています。聖書を聖書として、書かれてあることを、幼子のようにすなおに受け止め、明らかにされたものを受け取っていくときに、その人は救いへと導かれていくのです。
 16節は有名な箇所です。パウロは、聖書そのものが教えることに、こんなにも自信を持っていたのは、それが神様の息が吹き込まれたことば、神様の霊感によるものであることを知っていたからです。だれかの意見ではなく、神様のことばであり、絶対真理なのです。また聖書は神のことばであるので、有益なことが4つあります。「教えと戒めと矯正と義の訓練」です。
 私たちが本当に良い生き方をするために必要なもの、良い働きをするために必要なものは、人生の指南書でも、だれかのアドバイスでもなく、聖書そのものです。どのような問題にも励ましや戒めや導きを与えてくれる完全なものは聖書しかありません。神様のみことばが、私たちを整え、良い働きをするにふさわしいものとしてくれるのです。この困難な時代、多種多様な悩みの時にも、どのように生きるべきか、何を選び取ることが大切なのか、何が良い物であるかを見きわめることができます。
 私たちを、悪魔の欺きから救い出し「信仰による救いを受けさせ」また「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者」としてくれる完全なものは聖書しかありません。その聖書に、教え、戒め、また矯正、義の訓練をいただいて、「整えられた者」となり、また、ますます「整えられた者」とならせていただきましょう。
 『困難な時代がやって来る』
テモテへの手紙第二 3章1節−3章9節
2014年 5月 4日(日)
 
 テモテへの手紙第二が書かれたのは、パウロが死に瀕している時代、迫害の時代、ともに労していた人の多くが教会から離れていくという、非常に困難な時代です。また違った教えを言い広め、教えに背くこと、逆らうこと、他の人々を巻き込んでうそを混ぜ込んだり、違う教えを紛れ込ませたりする者たちがたくさん出てきていた背教の時代でもあります。その中でも信仰を保っていく、信仰の戦いについて語っています。
 「困難な時代」という「困難」という言葉は別の箇所で「狂暴」と訳されています。つまり困難な時代は「狂暴な時代」でもあるのです。悪魔や悪霊が猛威を奮って、本物の神様、本当の救いを見えなくしたり、違ったように思わせたりします。
2節以降では「狂暴な時代」に起こる具体例で、どのような人々が増えてくるかを説明しています。これらの問題は確かにパウロの時代もそうですが、今、そして私たちとその周りに起こりくることです。
 特に5節の「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者」とあります。敬虔であり、清い雰囲気で受けとめられる人がいます。それは素晴らしいことです。しかし、「その実を否定する」というのは、まさに見せかけの敬虔、みせかけの美しさです。本当の敬虔とは神様に罪を赦していただいた感謝や神様を愛する思いに裏打ちされたものです。そうでない人を避けなければなりません。
 もう、すでに「困難な時代」「狂暴な時代」、偽者の時代、うその時代となっています。しかしこれらのことが教えられ示されたのですから、私たちはそれをよく承知し避けるべきことを避け、ますます神様のみことばに教えられて歩んでまいりましょう。