ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年7月]を短くまとめてのせています。

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 『私たちとともにおられる神様』
マタイの福音書 1章18節−1章25節
2014年 7月27日(日)

 ヨセフは神様を信じ従う正しい人でした。信じられないことでも、信じたくなくても、神様のことばを信じ、神様のことばに従ったのです。
 私たちが神様に信頼するとき、信じるべきは「インマヌエル=神は私たちとともにおられる」というみ言葉です。私たちが信じられないような状況に置いても、私たちが神様に背を向けたくなるようなときでも、私たちの神様は「私たちとともにおられる神様」です。
 マタイの福音書は、イエスの誕生と生涯を通してインマヌエル、「神は私たちとともにおられる」という恵みの体験を証言します。キリスト教会とクリスチャンたちがイエス様によって体験したことは、神様が私たちと共にいてくださるというと喜びでした。これは今でも同じで日曜日に礼拝するのはイエス様の復活を記念しています。復活は、イエス様が私たち罪人を罪から救うために私たちの身代わりとして十字架に死に、私たちが神様と共に永遠に生きる保証として死人の中から復活し、「神は私たちとともにおられる」という恵みを表してくださったのです。
 マタイの福音書は、初めから終わりまで、イエス様の誕生から復活に至るまで、このインマヌエルという言葉で貫かれています。
 聖霊なる神様は、毎週の礼拝において神様の御言葉を通して私たちを新しい人間に造り変えて下さいます。わたしたちをイエス様に似た者に造り変えてくださいます。ヨセフ以上に神様に従ったのはイエス様です。イエス様が十字架の死に至るまでも父なる神さまに従順に従われたように、聖霊は私たちを聖書の御言葉に信頼し、キリストに従順に従わせて下さるのです。思いと信仰を新たに、「私たちとともにおられる神様」を信じ、「私たちとともにおられる神様」に従ってまいりましょう。
   『神様の御計画』
マタイの福音書 1章1節−1章17節
2014年 7月20日(日)

 マタイの福音書は、当時すでにあった教会のために書かれました。十字架で死なれ3日目に復活したイエス様こそ、旧約聖書が指し示すキリストであり、「インマヌエル」と呼ばれるべき方、旧約聖書を成就する方であることを示そうとしています。28章の終わりに復活の主イエス・キリストが11弟子たちに大宣教命令をなさったことからも、教会の使命は、伝道であることをも示しています。
 さて今日は最初の系図からタイトルを「神様の御計画」としました。この箇所から分かる「神様の御計画」とはどのようなものでしょうか。
 「神様の御計画」は、アブラハムに約束された(創世記12章、17章)ように、一民族や一地域のことだけでなく、わたしたち異邦人を含む全人類のためであったということです。また「神様の御計画」は完全であり、また罪深い私たちの世界に、罪深い系図に示される歴史の中に、罪なき神の子が来てくださったということでした。これは罪の解決のための「神様の御計画」であるとも言って良いでしょう。また「神様の御計画」は、このイエス様を私たちの救い主とするということで完成し、これ以後は救い主はありません。世界の救いは、主イエス・キリストが中心です。そして始められたイエス様による救いは、信じる信仰によってその人生を、新しく始めさせるのです。自分中心の生きかたを捨て、救い主キリストと共に生きる新しい人生となるということです。
 私たちはいつもこの「神様の御計画」にそしてこの福音書に励まされ、イエス様をまだ知らない人々にお伝えするように導かれていることを覚えたいと思います。特に今日は「神様の御計画」を覚え感謝し、この神様のみこころのために喜んで用いられるよう歩んでまいりましょう。
   『実を結ばない者にならないため』
テトスへの手紙 3章9節−3章15節
2014年 7月13日(日)

 パウロは、14節で「実を結ばない者にならないためです」と言っています。聖書では「実を結ぶ」という表現がしばしば出てきます。
 イエス様は弟子たちにこう言われました。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15:2)またパウロはこう言います。「光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。」(エペソ5:9)さらにバプテスマのヨハネもこう言っていました。「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。・・・だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」マタイ3:8、10
 まさに神様が私たちに望まれていることは、この「実を結ぶ」ということです。私たちのうちから実が結ばれていなければ、何のためにクリスチャンでなのかを問い直さなければなりません。自分が実を結んでいるかどうか、確かめてみる必要があるでしょう。むだなことばかりしていないか、良いもの益になるものを求めているか、十字架の恵みを覚えて良い行いに励んでいるか、自分勝手な思い込みのクリスチャン生活の中に埋没してはいないか・・・。常に自問しなければいけません。
 パウロは私たちが「実を結ぶ者になる」ということを教え、それは神様の御心にかなうよい行いをして歩むことだと教えています。神様が私たちに望まれていることは「実を結ぶ」ことです。どうぞ、実を結ぶように祈り、交わり、歩んでまいりましょう。実を結ばない者にならないために正しい仕事に励み、このテトスへの主題でもあるように、神様に従い、聖書が教える秩序を保ち、「健全な教え」と「良いわざ」に励んでまいりましょう。
  『新生と更新』
テトスへの手紙 3章1節−3章8節
2014年 7月 6日(日)

 最後の3章に入りましたが、私たちの姿勢やあるべき態度を覚えて、神様のいつくしみや哀れみのゆえに良いわざに励むことを心がけるようになるために書かれている箇所です。
タイトルを「新生と更新」としました。新生とは「新たに生まれる」、更新は、「新たにされる、新たに造りかえる」という意味です。ヨハネ3章でイエス様が「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)と言われた言葉そのものです。
 更新というギリシャ語は他に「心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)という箇所で使われており、まさに一新されるという意味があります。
 ですから「新生と更新」とは新しく生まれたものとして、心の一新によって自分を変え続ける、聖霊様によって変えられ更新され続けていくという意味で捉えても良いでしょう。
 クリスチャンになりクリスチャンとして歩むとは「聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださった神様の恵みの中を歩む」ということです。すなわち、新しく生まれて、それで終わらず、さらに新しくされ続けていくことこそが大事なのです。聖霊によって新生した者として、自分のためにも、また、他の人々へのよい証しのためにも、クリスチャンとしてのしっかり歩みんでまいりましょう。
 「新生と更新」によってイエス様と共に生きるものとされた私たちは、どうぞ、聖霊様の「新生と更新」によって日々新たにされ、神様の深いいつくしみと、あわれみと、恵みを豊かに覚えて、よいわざに歩んでまいりましょう。