ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年8月]を短くまとめてのせています。

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  『わたしの愛する子』
マタイの福音書 3章13節−3章17節
2014年 8月24日(日)

 ヨハネがバプテスマを授けているユダヤの荒野、ヨルダン川にイエス様が来られ洗礼を受けられました。水からあがられると、天が開いて声が聴こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」父なる神さまの、御子イエス様に対しての言葉でした。と同時に私たちに対しての言葉でもあります。イエス様は信じる私たちを神様の子どもとすることのできる方だからです。イエス様を信じる者は神様の子どもです(ヨハネ1:12、ローマ8:14、ガラテヤ3:26、Tヨハネ3:1)。
 イエス様が、天からの声を聴いたのは、私たちのためでもあります。私たちは主イエス様を信じて、救われて、神の子とされたのです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」これは、私たちに対する父なる神様の宣言でもあるのです。天の父は、御子イエス様を信じた私たちに向かって、「わたしの愛する子」と宣言し、呼びかけて下さるのです。洗礼を受けてもなお罪を重ねるような愚かな、半端な、罪深い者が、イエス様のおかげで「わたしの愛する子」と宣言されるのです。私たちは日々の生活の中でこの宣言をどれほど重んじて生きるかが問われます。軽んじるならそのことこそ、悔い改めなければならないのです。
 バプテスマを受けて、日常に埋没して行ったユダヤ人のことを、他人事とは思えません。しかし不信仰にとどまろうとするのではなく、みことばを、神様が「わたしの愛する子」と呼びかけてくださる宣言を、いつも聴きとりましょう。主イエス様から離れて生きるのではなく神様の子どもとしてイエス様とともに歩みましょう。いつも悔い改め、いつも「わたしの愛する子」と呼びかけられていることを覚えて歩んでまいりましょう。
  『悔い改めにふさわしい実』
マタイの福音書 3章1節−3章12節
2014年 8月17日(日)

 バプテスマのヨハネが荒野でしていた宣教の働きの特色を一言でいえば「神様の裁きを告げ知らせる」ということでした。神様の裁きが行われ、神様はヨハネの後にメシア遣わして、罪ある者すべて滅ぼされると、ユダヤの民衆たちに説教していたのです。
 マタイは、わたしたち読者に向けて、このバプテスマのヨハネの神様の裁きの説教を語りかけています。そして「悔い改めにふさわしい実を結べ」と私たちに教えます。もちろんクリスチャンを含むすべての読者に警告しているのです。なぜなら、クリスチャン生活とは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生活だからです。
 悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活は、神様の恵みによる生活です。聖霊の導きなくしてはあり得ない生活です。人の行い、才能、努力では得られません。神様は一方的な恵みをしっかり受け止め、感謝し、御言葉に従い続ける生活です。
 また悔い改めにふさわしい実を結ぶ生活は、神様を恐れ、神の裁きをいつも恐れて整えられていく生活です。神様の裁きの斧が木の根元に置かれ、良い実を結ばない木を切り倒し、永遠の火の中に投げ込むことを、自覚しないわけにはいかないのです。神様の裁きを覚えて、自分の罪を覚え、神様に従い、神様に赦していただき続ける生活です。
 バプテスマのヨハネの警告に耳を傾け、しっかりと受け取りましょう。タイトルにあるように、「悔い改めにふさわしい実」を結ぶ人生を歩んでまいりましょう。いつも神様を恐れ、どのような状況でも心を神様に向け、どんなことにも神様に服従する人生を歩んでまいりましょう。今週も十字架のイエス様の恵みにより頼む日々を送ってまいりましょう。
  『ヨセフは立って』
マタイの福音書 2章13節−2章23節
2014年 8月10日(日)

 悲惨な事件が描かれている箇所です。ヘロデは、東方の博士たちに裏切られたと知るとベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたというのです。
 そのような悲劇が起こる中でイエス様の父ヨセフの信仰が光ります。無事出産の喜びもつかの間、主のみ使いは、ヨセフにエジプトまで逃げて行けと命じるのです。14節に「ヨセフは立って、夜のうちに」とあります。「立って」という言葉は別の訳では「起きて」とあるように、まさにヨセフはその夢を見て起き、しかも「夜のうち」つまり直ちに旅立つのです。「すぐに従った」ということでしょう。2歳以下の子供のいる家庭、何の準備もない状況、決して容易ではない旅を前に、ヨセフは確信を持って直ぐに、何より優先して、神様に従ったのです。
 ヘロデ王が死んだ後も「イスラエルの地に行きなさい」との言葉に従い、さらに夢で戒めが与えられて住み慣れたダビデに出身地の美しい町ベツレヘムを捨て、田舎で粗野で救い主には似つかわしくないガリラヤの寒村ナザレに住むのです。
 この短い箇所に、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が繰り返されています。幼児虐殺が神の御心であったとか、計画であったということではありません。ヨセフの信仰が用いられ、みことばが実現したのです。神様の御心が成就するとき、大事なのは私たちの信仰が用いられることです。
 私たちもまた、ヨセフのように、目立たなくても、しかし、み言葉を信じて従う生涯、神様に喜ばれ神様に用いられる信仰の生涯を送ってまいりましょう。
  『救い主を求めて』
マタイの福音書 2章1節−2章12節
2014年 8月 3日(日)

 1節にあります「見よ」という言葉は驚きや強い関心を引かせる言葉です。ここでマタイが示す驚くべきことは救い主誕生の喜びに最初に招かれたのが東方の博士たちだったということです。
 「博士」と訳される「マゴス」はギリシャ語で占星術師です。旧約聖書では「忌みきらうべきならわし」(申命記18:9-12)と出てきます。さらに東方とは占星術が発達していたバビロンかその周辺からだっただろうと考えられますが、このバビロンはユダヤ人を捕囚にした民でもあります。昔ユダヤ人たちを捕らえたバビロン、神に忌みきらわれる存在であったのがこの東方の博士たちなのです。
 マタイがこのエピソードを書き記すには勇気がいることだったでしょう。敬虔なユダヤ人には信じられない、ありえないことでした。彼らも、神様の導きの不思議さを思ったでしょう。どうして、わたしたちのような神に呪われた者たちに、神は心にかけてくださったのか、と。
また東方の博士たちが高価な宝物を捧げて、幼子イエス様に対する献身、服従、礼拝の意を表したことも不思議なことです。
 今日のタイトルは「救い主を求めて」としました。東方の博士たちのように、わたしたちも生まれながらの異邦人であり、神に呪われ、見捨てられた者でした。しかし救い主を、真の王を探し求めて旅をしついに見出したのです。大事なのは救い主を、真の救いを、真の神様を捜し求めた、捜し求め続けたということです(マタイ7:7)。そして見出して献身し、服従し、礼拝する者となりました。
 私たちも「神の国とその義とをまず第一に求める」(マタイ6:33)者、さらに、献身し、服従し、礼拝する者として歩んでまいりましょう。