ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年10月]を短くまとめてのせています。

元に戻る


 『柔和な者の幸い』
マタイの福音書 5章5節
2014年10月26日(日)

 これまで「幸いです」という箇所を読んできて、幸福とは何かと考えてまいりました。この山上の説教の箇所全体が神の国、神様のご支配について話されていると話しましたが、幸福とは一言で言えば天のみ国の保証が与えられているということでした。この世での成功ではなく天国の祝福を、この地上における生き方として始めるというものです。
 しかしここでは「地を相続する」というのです。これは「柔和な者」はこの世にあっても神様から多くのものを託され、それを生かすことが出来る人だからこそ「地を相続する」ということにもなるのです。
 この「地を相続する」という言葉が、たくさん出てくる聖書の箇所があります。詩篇の37篇です。そして「地を受け継ぐ者」は「主に信頼する者、主を待ち望む者」であると書かれてあります。イエス様が「柔和な者」と語られた言葉の意味、その「柔和」とは、詩篇37篇を通して考えてみますと「信仰に徹底して生きる人」のことだと言えるでしょう。「柔和」という言葉はマタイ11:29では「心優しく」と訳されています。ですから、完全に神様にのみ拠り頼んでいる故の「柔和な者」の見本はイエス様なのです。そしてイエス様は「わたしから学びなさい」とおっしゃられたのです。
 「柔和な者」とは、神様に拠り頼む者、頑固でない、自己中心、自己主張から解放された、神様との交わりにより真の強さを与えられた者です。十字架の死に敢然と向かったイエス様にその模範があるのです。
 私たちは、「わたしから学びなさい。」とおっしゃるイエス様から「柔和」を学び、ますます神様にのみ拠り頼む「柔和な者」として歩んでまいりましょう。
  『悲しむ者の幸い』
マタイの福音書 5章4節
2014年10月19日(日)

 イエス様は、「悲しむ者は幸いです。」とおっしゃいました。このように言うことができるのは世界でただお一人、イエス様だけです。
 イザヤ書に救い主の預言がありますが「悲しみの人」であったとあります。やがて来る栄光に輝く救い主、メシヤは「悲しみの人である」というのです。イエス様の悲しみとは、私達の罪に係わる悲しみです。私達を造り、愛して下さる神様を知らないこと、不信仰を悲しまれるのです(マタイ23:37)。もう一つイエス様の悲しみのお姿で思い出すのは、ヨハネの福音書にある「イエスは涙を流された。(ヨハネ11:35)」という箇所です。ラザロとの死別を悲しむお心と死そのものに対するイエス様の憤りが表されています。イエス様の悲しみとは、人間の罪に対するものだと申しましたが、この箇所では、人間の罪の結果としての死に対しても悲しみと憤りを表されたのです。
 悲しみの本質を知り、私たちの罪と死を悲しまれたイエス様が「悲しむ者は幸い」とおっしゃられたのです。この悲しみとは罪と死という本質を持っているとお話してまいりましたが、今罪に悩み、死の恐れと悲しみの中にあって、しかしイエス様にその解決を求めている者は幸いなのです。なぜなら、そこには「悲しみの人」であったイエス様の完全な解決と慰めがあるからです。
 この「慰め」という言葉には、「側に呼び寄せる」という意味があります。つまり、イエス様の近くに呼び寄せられることによって与えられる慰め、イエス様が共にいてくださる真の慰めです。どうぞ悲しみをイエス様に預け、イエス様が共にいてくださることに信頼して、悲しむ者の幸いに歩んでまいりましょう。
2014年10月12日(日)    (野外礼拝)
   『心の貧しい者の幸い』
マタイの福音書 5章1節−5章3節
2014年10月 5日(日)

 7章の終わりまで続く「山上の説教」と呼ばれる箇所です。最初の箇所は、「至福の教え」とか「八福の教え」と呼ばれている箇所です。
 イエス様の近くに弟子たちが寄って来て最初に、その口から出た言葉が「幸いである」という言葉です。またこの「幸いです」という言葉は一般的な幸せではなく「神の祝福」という意味でもあります。
 では、ここで言われている幸いとは、どのようなものでしょうか。「心の貧しい者」が幸いであるとは、明らかに、不思議であり、私達の常識とはかけ離れていると言ってもいいでしょう。「心の」とは「霊の」と約す方が相応しいかもしれません。霊とは、神様と交わる部分の事です。しかも、その部分は神様によってつくっていただく、与えていただく以外にないものです。ですから「心の貧しい」とは、神様と交わる霊をただ貰うしかない、渇ききっている、無くしてしまっているということを自分で知っている者の事です。神様によってのみ豊かに注いで頂き、満たして頂く以外にないと言うことを認めていると言うことです。
 心の貧しい者の幸いに生きること、それは、神様に満たされた新しい生き方、天国の生き方を始め、その中に行き続けることです。イエス様は今、私たちにこう言います。「あなた方は、幸福です、祝福されています。なぜなら、心が貧しく、霊が乏しく、神様を求めているから。」
 「幸いになるように努力しなさい」ではなく、自ら十字架と復活によって、天の国の幸いを私共信じる者にお与えくださいました。イエス様が十字架にその命をかけて作りだし、与えてくださった幸いを心から信じ、これに深く気づき、偽物の幸福に騙されず、これを退け、天のみ国の幸いをますます深く味わい喜んでまいりましょう。