ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年11月]を短くまとめてのせています。

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  『義のために迫害されている者の幸い』<アドベント1>
マタイの福音書 5章10節−12節
2014年11月30日(日)

 これまで同様「義のために迫害されている者」の幸いを完全に備えていらっしゃるのは、イエス様です。間もなくクリスマスですが、イエス様は王であられるお方なのに家畜の糞尿の臭いただよう馬小屋で生まれました。マリヤとヨセフは泊まる場所がなかったのです。まさに全人類が神の御子イエス様を無視し、迫害したのです。しかもそのイエス様がお生まれになったのは、何よりもおそろしい迫害である十字架につけられて殺されるためでした。それは、私たちを天国に迎えるため、永遠の命を与えるためです。それほどまでにイエス様が与えようとしておられる祝福なのです。
 このクリスマスを前にしたアドベントの時。わくわくするイエス様の誕生、喜びの中に「義のために迫害されている者の幸い」を覚えましょう。私たちは天のみ国の住人です。しかしまだ神様を知らずに永遠を失ったままの人々のただ中に生きているのも事実です。その最中に、神様から遣わされているのです。永遠や真理を求めようとしない人々には、理解されません。かえって、疎まれることがあります。しかし、この迫害を避けることを第一にして、人々に永遠の命と神の愛、イエス様の交わり、天国を否定させるようなことがないように心から願います。
 私達は私達の存在や教会の存在によって、神の国の現れを鮮明にして、一人でも多くの人に、永遠の命、罪の赦し、天国に生きる幸いに満たされて頂きたいのです。このクリスマスの季節に、この世の幸いではない、真の幸いを、際立たせる者とさせていただきましょう。迫害をも喜びとする「天の御国はその人のもの」という喜びの中を、「義のために迫害されている者の幸い」の中を力強く歩んでまいりましょう。
 『平和をつくる者の幸い』
マタイの福音書 5章9節
2014年11月23日(日)

 平和は時代を超えた全人類の悲願と言っても良いと思います。一致、互いへの理解、優しさ、思いやり、それは私たちの望みであり同時に神様御自身も願われている、私たちに求めておられることなのです。しかし、私たちの目の前にある現実の世界は、平和とは程遠いもので、平和とはまさに現実社会における救いといっても過言ではありません。
 私たちにはできませんが、イエス様こそはこの地上に平和を実現し、神の子と呼ばれた人です。イエス様が実現された「平和」は第一に神様との関係のことです。イエス様が人となられ、十字架の上で身代わりとして死なれることによって、もたらされました。だからこそ私たちのようなものが「神様の子ども」となることができたのです。そして私たちは神の子どもとして、神の平和を与えられている者として、平和をつくる者の幸いの中を歩んでいくことの使命をしっかり認識し、その重荷を担うべきなのではないでしょうか。
 パウロも手紙の中で平和、神様との平和はもちろん、互いの平和について教えています。「すべての人と平和を保ちなさい。」(ローマ12:18)まさに互いの平和を保つようにと教えているのです。クリスチャンは「平和をつくる者」として召されています。
 それでは私たちが「平和をつくる者」とされるためにはどうしたらよいでしょうか。パウロは何度も平和を祈って手紙を終えています。彼自身は気性が激しい人だった印象がありますが、平和があるようにと祈っているのです。私たちも神様との平和を、イエス様の平和があるようにと、そしてすべての人と平和を保てるようにといつも祈りの中心において、平和をつくる者の幸いに歩んでまいりましょう。
『心のきよい者の幸い』
マタイの福音書 5章8節
2014年11月16日(日)

 「心のきよい者」というとどのような人を想像するでしょうか。清廉潔白な人、偉大な人、素晴らしい人格者、すばらしい功績がある人というイメージの方もいらっしゃるかもしれません。聖書の言う「心のきよい者」の大事な要素は純粋ということです。純粋とは一途であって、心が乱れていない、迷いがない、二心(ヤコブ4:8)でないといってもいいでしょう。
 ダビデは「私の心を一つにしてください」(詩篇86:11)と祈り「神は心の直ぐな人を救われる」(詩篇7:10など)と告白します。イエス様も気ぜわしくしているマルタに「どうしても必要なことは・・・一つだけ」(ルカ10:41,42)だと教えています。私たちは、心が一つで真っ直ぐに神様だけに礼拝しているかと問われると、日常においてはもちろん礼拝においても純粋一途になれていないと思う方が少なくない気がします。あのダビデでさえ「私にきよい心を造ってください」(詩篇51:10)と祈ったのですから。それではこのきよい心を持つためにはどうしたらいいのでしょうか。イエス様は「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」(ヨハネ15:3)とおっしゃいました。きよさとは、イエス様との関わりにおいて、ただ一方的に与えられることであることが明らかにされているのです。
 後半では「その人は神を見る」とあります。イエス様は、「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)とおっしゃいました。神を見るとは、イエス様を仰ぎ見ることだと言っても良いでしょう。だから「心のきよさ」すなわち、純粋さ、一途さ、真っ直ぐさが求められるのです。いよいよ、純粋に、一途に、主をあおぎ見る者としていただきましょう。
 『あわれみ深い者の幸い』
マタイの福音書 5章7節
2014年11月 9日(日)

 この「あわれみ深い」と言う言葉は、他にヘブル人への手紙2:17に出てきます。あわれみ深いお方とはイエス様ご自身です。イエス様は、天から私たちの惨めな姿、悲惨な姿をご覧になり、自ら人となって罪を贖うために十字架で命をお捨てになってくださったのです。イエス様は私をあわれんでくださり、大きな犠牲を払ってくださったのです。
 マタイの福音書は、『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』という旧約聖書を引用されたイエス様の言葉を2箇所(9:13、12:7)も載せています。著者が収税人マタイだから神様のあわれみを強調しているとも言えますし、神様があわれみを強調し、イエス様こそがあわれみの神様御自身であるからだといって良いでしょう。
 私たちはあわれみ深い者ではないことを痛感しますが、神様のあわれみを受けたことをそれ以上に痛感します。ですからできるかできないかではなく、すでにイエス様がおっしゃられているようにあわれみ深く生きることで、あわれみを受ける幸いを味わうのです。
 完全にはできません。完全はイエス様だけだからです。しかしそのイエス様に似たものとなるべく、あわれみ深く、あわれみ深い者の幸いの中を歩んでいこうではありませんか。私たちがあわれみ深くないことを、イエス様はあわれんでくださって十字架にかかり、私たちがあわれみ深い者の幸いの中を歩むようにと力強く導いてくださっているのです。そのあわれみに拠りすがるならば、あわれみ深く歩むことができるようになるのです。真のあわれみ深さをもつイエス様のあわれみを受けて大胆に、神様に近づき、赦され、隣人に対してあわれみ深く歩み、さらにあわれみを受けて歩んでまいりましょう(ヘブル4:15,16)。
   『義に飢え渇いている者の幸い』
マタイの福音書 5章6節
2014年11月 2日(日)

 私たちは罪があるために、自分たちが作り出した義に右往左往するのです。私たちが作り出した義でもよいものもあるでしょう。しかし私たちは自分で作り出した義に満たされることはありません。なぜなら、それはすぐに変化していってしまうものだからです。時と場所によっても変わります。しかし、この世界を創られ、私たちを造られた神様の義は変わりません。私たちが満ち足りるためにはこの世界を創られ、私たちを造られた神様の義を求める以外にはありえないのです。
 ですから本来の私たちはすべて神の義に飢え渇いているはずなのです。しかし神様に背を向けているので、違う義を求めて、すぐに移り変わってしまう基準をもとめて右往左往するのです。そうではなく、神の義に飢え渇いている者の幸いの中を歩みましょう。神の義、揺れ動かない神様のみこころを渇望し、心から求める者こそが満たされるのです。
 なぜならこの天と地の支配者である神様のみこころだけがなるからです。すでに十字架において成就、実現なさったのです。そしてその救い主イエス様を信じる者にはすべての罪が完全に赦されるという神様の正義がなされました。神の義の中心は、私達の救い主、主イエス・キリストご自身です。義に飢え渇くとはイエス・キリストに飢え渇くことといってもいいでしょう。そしてその結果は満ち足りたものになるのです。
 悲しみや苦しみの中にあっても、神の義に飢え渇いている者、イエス様を求める者は幸いです。その人は満ち足りるからです。イエス様の十字架の赦しの恵みと、それをみこころとして計画し実行してくださった神様の愛と、それを信じさせてくださる聖霊様の働きに感謝し、その神様とともに、満ち足りた日々を歩んでまいりましょう。