ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2014年12月]を短くまとめてのせています。

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   『喜んで』
ピリピ人への手紙 2章12節−2章18節
2014年12月28日(日)

 元旦には宗教嫌いの日本人でも多くが初詣に出かけ、わずかばかりのお賽銭で神頼みをします。パウロの時代のアテネも偶像の神々であふれていました。私たちはどうしようも無い力に脅かされるからです。古代も現代も、人は未知の脅威に怯えて暮らしていると言っても良いでしょう。出来ることといえば「災いが来ませんように」と祈るだけなのです。しかし、その災いを喜ぶことが出来るのがパウロであり、私たちクリスチャンです。彼は、今、ローマの獄中にあることを喜び、また自分が死ぬことを喜んでください、犠牲を喜んでくださいというのです。
 今日は「喜んで」と題をつけました。みなさん、この一年を喜んで終えられるでしょうか。有名な詩篇103篇2節に「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」とあります。感謝だったことを思い出しなさいと言います。
 いやそれだけでなく感謝に思えないことも、パウロやボンヘッファー(「主のよき力に守られて」)やそしてイエス様と同じように、苦き杯をも、例えそれが死であったとしても喜びとし感謝しなさいと聖書は教えています。それほど大げさでなくても私たちの人生は、生きている限り、病気や怪我、悲しみや挫折、痛みや失望があります。今年あなたに襲った困難や苦しみ、悲しみ、失敗を数えてごらんなさい、と言われれば、すぐにたくさん出てくるかも知れません。しかしボンヘッファーは、そして聖書は、永遠の慰めを与えてくださる神様を信頼し、主が共にいてくださることを喜びなさい、というのです。
 どうぞすべてのことをつぶやかずに(ピリピ2:13,14)この一年を喜んで終え、すべてのことを疑わずに新しい一年を喜んで迎えましょう。
   『福音』<アドベント4>
ローマ人への手紙 1章2節−1章4節
2014年12月21日(日)

 パウロは自分のことを「神の福音のために選び分けられた者」と紹介し、2節から6節の中線 によって記されている箇所で、その福音について説明しています。
 この箇所からわかることは、福音というのは神様からの「良き知らせ」です。パウロが勝手に言っていることでなく旧約聖書の中に記されていたことの実現であるのです。つまりイエス・キリストの誕生は旧約の預言の成就であり、すばらしい神様からの救いメッセージの実現なのだということです。なぜなら、私たちのあらゆる問題の根源である罪の問題を解決するために、この世界を創り今も支配している神様は、イエス様を、約束どおりに私達のところにお送りくださったからです。
 イエス様は十字架で私たちの代わりに罰を受けてくださる為に、お生まれになったのです。それは神様のご計画でした。神様の約束の成就でした。これがまさに今日のタイトル「福音」であり、素晴らしいお知らせ、グッドニュース、救いのメッセージなのです。
あとはこれを受け止めるだけです。受け止められなければ、ただのお知らせ、素晴らしくも、グッドでもないただの知識でしかありません。それはあまりにももったいない。このことを御計画くださった神様を悲しませてしまいます。どうぞこのクリスマス。皆さん一人一人の為に神様が御計画くださった素晴らしい出来事を自分に対する神様からのプレゼントとして受け取って、感謝して、喜んで、十字架の死と復活を成し遂げてくださったイエス様を思って過ごそうではありませんか。
 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。Uテモテ2:8
   『主もまた同じように』<アドベント3>
ヘブル人への手紙 2章14節−2章16節
2014年12月14日(日)

 この箇所から、クリスマスに関して私達が知らなければいけない三つのことを考えたいと思います。それはまた、私達が伝えなければならないクリスマス意義でもあります。
一つ目は、「神が人となった」ということです。14節前半に「主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました」とあります。自然界も、全宇宙も、そして、皆さん一人一人をも造られた創造主なる神様が、肉体を持つ人間となったということです。
 二つ目は、神が人となったのは「死ぬため」であったということです。14,15節に「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため」とあります。ですから何の為に死ぬかと言えば、悪魔を滅ぼし、恐怖から解放する為でもありました。
 三つ目は、それは「私のため」であったということです。16節に「確かに、アブラハムの子孫を助けてくださる」とあります。パウロも「アブラハムの信仰にならう人々」(ローマ4:16)と表現している通り、イエス様を救い主と信じる者、つまり「私のため」であったのです。
 「主もまた同じように」というタイトルをつけました。確かに、多くの人たちはなぜイエス・キリストがお生まれになったのか、なぜ、神ご自身が「私と同じように」なってくださったかを知りません。でも、私達は知っています。皆さん、クリスマスだけではなくて、毎日の生活において感謝しましょう。そのことを知らない人たちに伝えましょう、イエス様の降誕はあなたのためだと。この救いをいただき、この救いを語る者として歩んでまいりましょう。
   『義の太陽が上る』<アドベント2>
マラキの書 4章1節−4章6節
2014年12月 7日(日)

 義の太陽とはイエス様のことであり、十字架の救いです。クリスマスを待望するこの時、十字架についてはまだ先のことだと思われるかもしれません。しかし義の太陽は何のために上ったのでしょうか。イエス様が何のために現れたのでしょうか。この世を救うためです。その救いは十字架によってしか救うことができなかったのです。イエス様は世に現れ、神様の御心と御業を示しました。人々の関心は、良いお話をしてくれるイエス様、奇跡を行うイエス様としてしか受け止めなかったのでした。イエス様は人々の根本的な罪を十字架によって滅ぼされたのでした。まさに義の太陽が上ったのです。高ぶってこのことを受け入れないなら滅びが待っています。しかし義の太陽は信じる私達に対して輝き、恵みと希
望と導きとを与えているのです。
 このマラキ書の時代と今の私達の時代とは似ているかもしれません。国家や民族レベルの問題、身近な人間関係の問題、決して変わらない私達人間社会にはたくさんの大きな問題が常にあります。しかし聖書が言うように、主を恐れること。真剣に受け止め、悔い改めること。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。」(マラキ3:10)との言葉を本気で受け止め、真剣に、神様の祝福を求めるなら、実際的な問題にも神様は応えてくださるのです。
 クリスマスを「義の太陽が上る」というメッセージとして本気で受け止めるなら、イエス様を信じて罪の問題の解決、救いの到来の喜びを頂くなら、この社会は暗い社会ではないのです。義の太陽が上り、照らし続けていることを真剣に受け止め、希望と平安に満たされましょう。