ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2015年 1月]を短くまとめてのせています。

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  『あなたをつまずかせるもの』
マタイの福音書 5章27節−5章32節
2015年 1月 25日(日)

 「相手を女性と見ることと、情欲を抱くということは同じ意味」といった人がいますが、そうであるならイエス様が言われる命令は不可能といわざるをえません。
 「姦淫してはならない」という戒めが語られている状況を見ると結婚している夫婦の関係を壊してはならないという意味でとらえることができます。しかし人間は他人の妻でなければ良い、夫婦の関係を犯さなければいいのだと考え出すのです。ですから問題なのは、心の中に何が起こっているのかということです。自己中心の、非常に都合のよい考え方です。自分を正当化しながら過ちを犯すのです。イエス様はそのことをよくご存じでした。だから、ここでこの「姦淫してはならない」という戒めが引き起こす人間の罪を明らかにするために、このことを言われたのです。つまり誰もが罪人で、誰もがこの罪を犯すのです。ここに私たちの罪の姿、私たちの心の中が語られているのです。
 タイトルにつけましたように「あなたをつまずかせるもの」はなんでしょうか。別の表現をします。私たち人間社会の最小単位であり、愛によってこそ結ばれているはずの夫婦の関係を壊すこと、すなわち愛することを邪魔したり、愛のある関係を壊したりする考えや行動はどのようなものかということです。イエス様は「それをえぐり出し、切って捨ててしまいなさい」といわれます。そのためにイエス様のみ言葉に導かれ、そして十字架の赦しと救いのなかで、体も魂もイエス様の愛と恵みに満たされ、整えられ、健全に、聖く、義の中を歩んでいくのです。
 十字架のイエス様の大きな愛をしっかりと受け止め、私を躓かせるものをえぐり出し、捨てながら、イエス様に従って参りましょう。
 『腹を立てる者は』
マタイの福音書 5章21節−5章26節
2015年 1月 18日(日)

 「腹を立てる者は」というタイトルをつけました。「腹を立てる者」はそれだけでゲヘナに投げ込まれると聖書は言います。大事な事は、ゲヘナを恐れるのではなく、どのような場面でも、どのような時でも、どのような関係でも、怒りや憤りを静めなさい、仲直りをしなさい、敵対していても仲良くなりなさいということです。
 忘れてならないのは、イエス様が私たちにすでにしてくださったということです。私たちが受け入れる前にイエス様は私たちのために十字架にかかられたのです。イエス様が、私たちに愛を示してくださったのです。私たちを怒らず、私たちを見捨てることもしないで、赦しの手を差し伸べてくださったのです。まず神様が、イエス様が、罪深い私達に手をさしのばしてくださったから私たちは腹を立てるなという神様の御心を行なうのです。そうしないと殺人と繋がり罪に定められてしまうのです。しかも怒り、敵対心、罪の責め苦の中に生きる事は本当につまらない人生、いつも苦しい生き方です。そのために、まず、私たちの心にある怒りを捨てること、そこから全てが始まるのです。私たちは自分が怒りや悲しみに支配されないよう、怒りではなく赦しに導かれるよう求めておられるのです。
 聖書の教えは外面的なことではなく内面にまでかかわるのです。さらにもう一歩進めるなら、私たちは「殺さなければよい」という消極的態度ではなく、積極的に相互の人間関係にも和解をもたらすことすらできるのです。愛と平安に満たされて歩んでまいりましょう。愛と平安をもたらすものとさせていただきましょう。このイエス様を見本にして、神様を愛し、隣人を愛する関係を築き上げてまいりましょう。
 『あなたがたの義』
マタイの福音書 5章17節−5章20節
2015年 1月 11日(日)

 律法と福音、律法学者やパリサイ人の義とあなたがたの義=私達の義ということがテーマです。
 律法学者やパリサイ人の義とは自分の力や努力で果たすことのできる義です。イエス様はここで「自分でやり遂げる義」ではなく、神様の示す「義」でなければならないと言っておられるのです。私たちは自分が戒めを守れるから立派なのだとか、守れないからダメなのだというところでしか判断できなくなってしまうと、結局は自分の事しか見えておらず神様の心を見失うことになるのです。
 「神の義」とは、「神様と私たちとの正しい関係」のことです。私たちが神と正しい関係に生きていることができるのであれば、そこに、神の御心があるのです。私たちの義は神様の義でないといけないのです。この世の成功や失敗にとらわれるのではなく神様と共に歩むことが大切です。イエス様が十字架上で犠牲になってくださったのですから、神様に信頼して、創造主にして支配者、私たちの死も永遠の命も支配されている方に信頼して歩むこと以上に大切な事はないのです。
 イエス様はその生き方を示してくださいました。私たちに原則を語り、手本を示してくださっているのですから、私たちはこれに倣って行く時に、「律法学者やパリサイ人の義にまさるもの」を手に入れることができるのです。いやすでに手に入れているのです。イエス様に倣って、神様に信頼して歩む生き方は神様の御心にかなうものだと信じて、平安と同時に、確信を持って歩んでまいりましょう。イエス様の生き方、神様の御心の通り神様に信頼し神様の価値観の中を神様と共に歩む生活をつくり上げてまいりましょう。
 『地の塩、世の光』
マタイの福音書 5章13節−5章16節
2015年 1月 4日(日)

 イエス様は8つの祝福の最初と最後の言葉で「天の御国はその人のものだからです」とお語りになりました。イエス様は「天の御国」に人々を招くために宣教を開始されたのでした。
「天の御国」とは「あの世」のことだけではありません。むしろ、この世で、神様の支配のもとで生きることです。それで、8つの祝福を語り終えてすぐに「あなたがたは、地の塩です。」とお語りになられたのでした。あなたがたは「地の塩として生きなさい」とか、「地の塩になるのです」というのではなく、「あなたがたは地の塩です」と宣言しておられるのです。私たちがイエス様を信じて、神の国で生きる者となったということは、そのまま「地の塩」となったのだということです。
 「世の光」の方も同様です。「世界の光」となりなさいとか、「世界の光」として生きなさい、というのではなくて、私たちの存在そのものが「世界の光である」と宣言されています。イエス様を信じる私たちは、「地の塩、世の光」として生きることができる存在であるということになります。
 ですから、16節にある「良い行い」とは「立派な振舞い」「良い人になる」というようなことではなくすでに地の塩、世の光とされている私たちの中からしみだしてくるものです。私たちの「良い行い」は支配してくださっている「父なる神」から来るのです。神に支配されているから、私たちは自然に、この神の御業を行う者とされているというのです。
 私たちは、この世界で神の栄光を表すために、「地の塩、世の光」として生かされているのです。この一週間を重たい気持ちではなくて、希望をもって過ごして参りましょう。