ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2015年 2月]を短くまとめてのせています。

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   『施しが隠れているため』
マタイの福音書 6章1節−6章4節
2015年 2月22日(日)

 6章1節から18節がこの山上の説教の中心であるといわれています。その中心が、「主の祈り」です。そしてその「主の祈り」の前後で、今回のテーマの「施し」、次回の「祈り」、そして主の祈りの後で「断食」について教えられています。そして「人に見せるための施し、祈り、断食に気をつけるように」というのが大切なメッセージで、この冒頭の1節が18節までの全体の内容を言い表しているとも言えます。
 さてその最初の施しについて「隠れているため」とイエス様は言われます。そして「隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」とおっしゃるのです。神様に施しが隠されないために、人からも、自分からも施しが隠れている必要があります。そのために、「右の手のしていることを左の手に知られないように」という高い基準を自分の基準として歩むことが大切なのです。
 神様は、いつも私たちをご覧になっておられ、報いを与えたいと考え、祝福したいと願っていてくださるお方です。ここに、私たちの支えがあります。神様は、私たちをさばき、懲らしめ、自由を奪うためにいつも見張っているわけではないのです。だからこそ私たちは、この「神様の前にあゆんでいる」という意識が大切なのです。自分を心からさらけ出すことができる、私たちの罪をもさらけ出すことができるからです。そのように神様のみ前で安心して生活できるなら、それが私たちの幸いであり平安と休息があり、本当の慰めと憩いを見出すことができるのです。
 いつも私達を見ておられ、共に歩まれる神様の報いを期待し「施しが隠れているため」に「右の手のしていることを左の手に知られないように」という高い基準を、喜んで自分の基準として歩んでまいりましょう。
  『自分の敵を愛する』
マタイの福音書 5章43節−5章48節
2015年 2月15日(日)

 イエス様のことばの最初に『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と出てきます。ユダヤ人たちが自分たちで言い伝えてきた「口伝の律法」の中で聞いてきた教えであると考えられます。これを違和感なく聞いた当時のユダヤ人は、迫害する敵は、憎むのが当然だと考えていたのです。それは、ユダヤ人だけでなく、私たちも同じなのではないでしょうか。
しかし、イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とおっしゃられました。
 私たちは「愛する」ということを、感覚的にとらえたり、感情的なものであったりと考えてしまいがちです。好きという気持ちの延長線上に愛するということがあると考えている人も少なくないでしょう。また気持ちは、自分の利益と結びついているのではないでしょうか。ここでイエス様が語ろうとしておられる愛は、そのような自分の感情や損得を超えた愛なのです。
 そもそも愛とは制限があるものではありません。神様の愛は悪い人にも良い人にも、正しい人にも正しくない人にも恵みが与えられているからです。神様の完全な愛とは制限のない愛のことで、私たちもこの神の愛が注がれているのです。そしてイエス様は、ここで神様の愛の事実に気づくように促しておられるのです。神様の愛を知るとき、究極的なイエス様の十字架の愛を知るとき、私たちは神様の願う生き方、神様の目的にかなった生き方をすることができるようになるのです。
 「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とここで語られているように、まず祈りましょう。神様を信じて、イエス様がおっしゃられたように、愛し、お祈りをいたしましょう。
 『与える生き方』
マタイの福音書 5章38節−5章42節
2015年 2月 8日(日)
  「右の頬を殴られたら左の頬も」というのは、復讐心から開放されるということです。神様の御心は、私達が神様を信頼し、神様にゆだねるということで、復讐も神様にゆだねるのが正解です(ローマ12:19)。
 罪からの解放とは、過去の罪の赦しだけではなく、これから起こる罪、例えば、この復讐心や仕返ししようとする思いからも解放されているということです。この復讐心、憎しみ、憤り、怒りは私達を滅ぼす力を持っています。内側から私たちの心を蝕み、外側では絶えず争いや緊張関係でストレスを受け続け、与え続けるのです。そこから解放されるには、神様にゆだねる、それだけでなく、相対している相手にもゆだねて「右の頬を殴られたら左の頬も」出すのです。相手に身を任せるという、神様にゆだねる究極の形を示しているのです。
 我慢してイエス様のおっしゃることを頑張るということとも違います。自分の為、自分が罪から解放される為なのです。罪から解放されるとは、怒りや妬みや憎しみを代表する復讐心から解放といってもいいでしょう。あるいは、自分のプライドに関する執着、過度の自尊心、自分の都合という自己中心性、自分の所有物に対する執着、それらからの解放と言っても良いでしょう。神様にゆだねて、愛するということに生きる、という義をイエス様は語っておられますが、十字架にかかって死んでくださったことはその最大の見本です。
 私達は信仰を持って、神様にゆだねて生きるのです。「与える生き方」とは執着を捨て、神様に心から信頼して生きる生き方なのです。どうぞみなさん、罪のもととなる一つ一つのことから解放されて歩んでまいりましょう。
 『誓ってはいけません』
マタイの福音書 5章33節−5章37節
2015年 2月 1日(日)
 「偽りの誓いを立ててはならない」という戒めです。
 そもそも誓いは「自分の言葉は本当である」ということに真実味を帯びさせるためのものです。そこに神様を登場させ自分の言葉が真実であると証明しようとしたのです。神様だけでなく天や地、神殿や自分の頭を登場させるのです。しかし、これらは全て、自分の言葉に責任を持つことができないからではないでしょうか。
 さらに誓いについて自分勝手に受け止め、誓いの方法を自分勝手に考えて出して(マタイ23:16-18)いくのです。ここから分かるのは、当時の人々は誓いを守るということを考えないで誓いをしていた、ということです。そして当時の人々だけの問題ではなく本音と建前の言葉を使い分けている日本人の私たちも同じなのかもしれません。
 それに対してイエス様は、「『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい」(37)といって、真実の言葉を語る、心からの言葉を語ることを教えているのです。私たちは日常生活の言葉においてすらも真実であるよう、誠実な言葉を使うよう教えられています。私たちは神様のみ言葉どおりに十字架の死と復活を成し遂げられたイエス様に倣うものでなければならないからです。
 それでは何も言えない、言葉を発してはいけない、と考えてしまうかもしれません。しかし教えられていることは、神様を信じて歩むと言うことは、自分を偽らず、見栄をはらず、自分を守ろうとすることも不要だということです。自分の都合や浅知恵ではなく、神様を信じて歩む中で、私たちは語るのです。どうぞ今週も神様に信頼して語り、神様を信じて歩みましょう。