ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2015年 3月]を短くまとめてのせています。

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  『ヨセフとニコデモ』
ヨハネの福音書 19章38節〜19章42節
2015年 3月29日(日)
 今年の受難週はイエス様の弟子であったヨセフとニコデモに注目します。ローマ帝国のやり方では十字架刑の死者の遺体はそのまましばらく十字架上で野ざらしにされますが、ユダヤの律法では「次の日まで木に残しておいてはならない(申命記21:22,23)」とありますので、イエス様の遺体は、日没前に恐らく犯罪者用共同墓地に入れられることになっていたでしょう。イエス様を愛する多くの人々はそれをどうすることも出来ないまま心の痛みと焦りに支配された状態だったのではないでしょうか。そこで名乗りをあげたのがアリマタヤのヨセフとニコデモでした。この二人の共通点はこのようなものがあります。
@有力、りっぱな人、「神の国」求めていた
A「隠れた弟子」だった
B「消極的な信仰から積極的な信仰」に変えられた
 彼らは信じていながらも隠れ、消極的でした。しかし、イエス様の埋葬を行ったのは彼らです。社会的に有利な立場を失うかもしれないリスクを覚悟しながら、公然とイエス様の葬りを行いました。この二人は私たちの弱さや悔い、勇気のなさをあらわしてくれているのかもしれません。しかしその彼らが用いられ、信仰を表明させてくださった神様の確かな導きを見させてくださったと覚えるべきなのではないでしょうか。
 イエス様はいつも私たちに信仰を与えてくださり、信仰に導いていてくださり、信仰告白をする勇気を与えてくださり、十字架の死はあなたの罪の身代わりだよ、といつもやさしく悔い改めと信仰に力強く導いていてくださっているのです。イエス様の救いを覚えつつ、信仰者として、勇気を持って力強く歩み続けてまいりましょう。
 『主の祈り〜御国〜』
マタイの福音書 6章10節
2015年 3月22日(日)
 「御国」とは「神の国」、「天国」、あるいは神様の御心が完全に実現している、神様がご支配されている国のことです。ですから「御国をきたらせたまえ」という祈りは、このように説明できます。
 第1に「悔い改めの祈り」です。自己中心からの解放と、神様中心への方向転換です。神様の御心を第一とする時、すでに「御国」は始まり、その中におり、この地上で実現するのです。つまり「御国を来らせたまえ」という祈りは、「私の内から自己中心的を取り除いてください」という祈りなのです。そして、「私がイエス様の十字架の死と復活を通してもたらされた神の国を受けいれることができるようにしてください。そのような信仰をわたしにください。」という祈りなのです。
 第2に「宣教の祈り」です。私がイエス様に救われた、罪から解放された、神様の御支配にゆだねますと言って歩むときに、その人は影響を与えます。またそのような人が増え広がって行きます。そして集まりが形成されます。それが地上における神の国としての教会です。神の教会は増え広がるのです。宣教のみ業が増え広がるために私たちは「御国をきたらせたまえ」と祈るのです。
 第3に「再臨待望の祈り」です。それは「死もなく、悲しみ、叫び、苦しみ、涙もない」世界の到来です。神様の正しいさばきもあるのですが、イエス様の十字架の贖いの故に信じる私たちは正しいものとされ、神の子どもとされ、神様とともに住むことが許されることを意味しています。再臨を願いつつ感謝をもって祈るのです。
どうぞこの部分をしっかりと心で意識しつつ、大切に、共に主の祈りを祈りつづけてまいりましょう。
 『主の祈り〜御名〜』
マタイの福音書 6章9節
2015年 3月15日(日)
 イエス様は数ある祈りの中から、「御名を崇めさせたまえ」という祈りを最初に祈るように教えてくださいました。なぜならば、それが天の父なる神様が一番喜んでくださる祈りだからです。そして、実はわたしたちにとって一番大切な祈りであることを教えてくださったのです。
 「御名」とは神様のお名前のことです。神様はご自分の名前を隠すことなく、わたしたちに教えてくださいました。「ヤハウェ」は「わたしはある」というものである、という意味ですが、さらに「わたしは必ずあなたと共にいる」という意味も含まれています。「イエス」という名前は、「主はご自分の民を罪から救う方である」という意味であり「インマヌエル」と呼ばれるとイザヤ書で預言されていましたがこれは「神われらと共にいます」という意味でした。神様が私にとってどういう方なのかということを告白し宣言するのが「御名」があがめられますように、という主の祈りの最初の最も大切な部分なのです。
 「あがめられますように」と言う部分は、本来聖いはずのお名前を聖くないものにしてしまう私たちが、この祈りを通して悔い改め、真実の信仰の告白をするためにイエス様が教えてくださったと考えることができます。その真の悔い改めと信仰の告白を通してこそ、御名が本当の意味であがめられるのです。ですから、この祈りは悔い改めであると同時に真実の信仰の告白の祈りです。
 どのような状況にあっても最も大切な祈り、それが、「御名を崇めさせたまえ」です。この祈りは、わたしたちが自分の無力さを知らされ、また祈るべき言葉を失う時にも祈ることが出来る祈りなのです。大切に、この主の祈りを祈りつづけてまいりましょう。
  『主の祈り〜天の父〜』
マタイの福音書 6章9節
2015年 3月 8日(日)
 「天にいます」あるいは「天にまします」という言葉から始まります。天は神様が住んでおられ、人間がどんなに背伸びしても手の届かない所にあります。地に住む私たちは悩みや苦しみがありますが、天を仰ぎ見る者とされています。天は、私たちの希望でもあり、天の神様に祈ることができるということが、私たちのなぐさめなのです。手の届かない所に神様はおられますが私たちの声は届くのです。
 次に「私たちの」あるいは「我らの」という言葉があります。神様を父と親しく呼ぶ者とされているのは、私一人ではなく「私たち」なのです。赤の他人であっても、あるいは敵であった人でも、天の父のもとでわたしたちは互いに兄弟姉妹となることが許されるのです。主の祈りは、どのような人とも、その隔ての壁を乗り越え、私たちを一つに結び合わせ、兄弟姉妹とさせる力を持っているのです。
 最後は「父よ」という言葉です。私たちが「父よ」と呼ぶとき神様の子どもの立場に立つことが許されているということなのです。神様の子どもにふさわしくない者ですが、無償のプレゼントとして、イエス様の十字架の死と復活を通して「神様の子どもとなる」特権を与えられているのです。私達は、神様の子どもとして愛されているという信頼をもって神様に祈ることができるのです。
 この最初の「天にまします我らの父よ」という言葉だけでも、深い意味があり、イエス様が教えてくださった主の祈りをおろそかできません。ですから、わたしたちはただ唱えるだけでなく、感謝の気持ち、悔改めの気持ち、希望や励ましをの思いをもって、一言一言よく味わいながら心から祈っていく祈りの生活を続けてまいりましょう。
 『祈るときには』
マタイの福音書 6章5節−6章8節
2015年 3月 1日(日)
 イエス様は神様に向かうはずの祈りが、人間の立派さ、宗教的な敬虔さというものを際立たせるものとして利用されていたことに心を痛めておられました。ですから、人は祈りの姿において偽善者になるということに注意をするようにとイエス様は言われたのです。
立派に見せたい、良い評価を得たいという、人にどう思われるかではなく、祈る相手である神様にどう思われるかが大事なのです。これはまた、私達は人を祈りで評価しているということも言えます。人の祈りを聞いて立派だとかそうでないとか。評価される側としても評価する側としても、私たち自身、よくよく気をつけなければならないことです。
 また8節に「神様はお願いする前から必要をご存知である」と書かれていますが、ここから祈らなくてもいいという考えが出てきます。しかしイエス様はこの後、このように祈りなさいと主の祈りを教えておられます。祈りの言葉や量によるのではなく、誰に祈っているのかが大事、願う以前に必要なものを知っている方に祈っているのだ、と理解することが重要なのです。
 「祈るときには」神様に真摯な姿勢で祈るということが大切です。必要を知っていてくださる方に祈るのですから、あれもこれもお願いします、という必要もありません。人前で祈るときは、共に祈る者たちを代表して祈るという意識、真摯な言葉で、神様への応答、神様との深い交わりに導かれることが大切なのです。
 父なる神様に対して、イエス様が教えてくださったように、聖霊様を通しての祈りの生活、三位一体の神様との深い交わりの生活を実践してまいりましょう。