ここには、中野拓哉牧師の日曜日の礼拝メッセージ[2015年 4月]を短くまとめてのせています。

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  『主の祈り〜日用の糧〜』
マタイの福音書 6章11節
2015年 4月19日(日)

 主の祈りの第四の祈り、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という箇所です。主の祈りの前半は「神様に関する祈り」でしたが今回から後半の「人間に関する祈り」に入ります。
 人間に関する最初の祈りが「糧を求めて祈る」ということは意義深いと思います。とても肉的であり、物質的ですから浅ましさ、卑しさを感じるかもしれません。しかし、イエス様は文字通り、目に見える糧を求めて祈るように教えてくださったのです。
わたしたちの生活の大部分は食べることと関係しています。実際に食べるということだけでなく、そのための準備や、食事をしながら次の食事に頭を悩ませるということすらあるかもしれません。
 また「仕事」を「食いぶち」と表現することがありますが、働くということの中には生きる糧を得るためという大事な要素が含まれています。
 またその仕事のための健康や日々の力、あるいは精神的な安定や、働くための、食べていくためのあらゆる必要な要素を含めて「我らの日用の糧」と捕らえるならば、短期的な生活だけではなく、人生全体に貫かれた生活や命ということにまで含まれます。
 また「我ら」とあり、単なる自己中心的な祈りではなく隣人の糧を得ることができるかどうかということにも関心を向ける祈りでもあります。
さらに広い意味では「御言葉のパン」、「心の糧」などという意味も含まれるといって間違いではないでしょう。
 私たちは神様からすべての必要なものを頂いています。その最大のものは、救いです。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りながら、神様に全人生を委ね、主と共にある生活を築き上げてまいりましょう。
  『主の祈り〜御心〜』
マタイの福音書 6章10節
2015年 4月12日(日)

 主の祈りの第三の祈願の箇所です。
 主の祈りの中で言われている「天」は、目に見えない神様がおられる所、神様の御心が完全に実現している所だと言えます。その意味では神様の御心がなされるならば、この地も「天」になることができますが、現実は神様の御心とは正反対のことばかりです。クリスチャンであっても本当に御心を行っているとは言い難く、時には「神様の御心」と称して、自分の思いを満たすことがあるのではないでしょうか。
 では御心とはなんでしょうか。この祈りを教えてくださったイエス様は何が御心かを完全にご存知で、それはイエス様が私たちの罪を背負い、十字架で殺されるということでした。ゲツセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と祈られました。
 そして私たちに示された御心はこのようにまとめることが出来ます。「私がイエス様を信じ、自分の罪を悔い改め、信仰を告白し、バプテスマを受け、聖書の御言葉を通して教えられ頑なさが打ち砕かれ、礼拝と賛美と感謝そして自分自身を捧げる生活を送り、日々新しく造り変えられ、交わりを通して神の民、神の家族として歩むことを味わい、その恵みを周りの人々に証しすることを通して、キリストの体なる教会が形成され、教会を通して世が救われること」
 神様は私たちが自らの意志と決断をもって、主体的に御心に従う道を選び取ることを待っておられます。わたしたちもこの祈りを祈ることを通して、御心を行う者へと変えられて参りましょう。
  『見て、信じた』(イースター)
ヨハネの福音書 20章1節〜20章10節
2015年 4月 5日(日)

 8節に「見て、信じた」とあります。ヨハネは、自分が空の墓と残された亜麻布を見て信じたのだと記し、空の墓と残された亜麻布が、ヨハネの信仰の原点となったことが現れています。
 「見て、信じた」というと12弟子の一人トマスを思い浮かべます。トマスは、「私は自分の手で実際にイエス様に触らなければ信じない」と言いましたが、イエス様は「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。この言葉は後の時代の教会にとっては、大切な真理となります。実際に復活したイエス様を見なくても、初代の弟子たちが残した目撃証言を聞き、墓が空になっていることを知ることによって信じることが大切だからです。私たちも、復活されたイエス様の姿を実際の目で見なくても、聖書の証言と信じた人々を通して現された神様のみわざによって、信じることができるのです。
 さらに注目すべきは9節の「まだ理解していなかった」という言葉です。ヨハネは「見て、信じた」のですが「まだ理解していなかった」のです。私たちも「理解したかどうか」と「信じるかどうか」はぴったり来ないことがよくあります。ですから聖書が全部わからなければ信じられないとはならないのです。信仰は、イエス様を信じ受け入れる、ということから出発します。また信じたからといって、すべてがわかるわけではありません。理解していない部分がたくさんあってもいいのです。
 「見て、信じた」というヨハネの信仰のごとく、私たちもヨハネが、ペテロがマグダラのマリヤが、その他大勢の弟子達が見て信じた信仰を、聖書を通して読んで聞いて、力強く信じて歩んでまいりましょう。さらに理解を深めながら信仰者として成熟してまいりましょう。