ここには、教会へお招きした教職者の礼拝メッセージのヒストリをのせています。

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  『もうためいきは終わり』
                中澤 信幸師(大野キリスト教会)
ガラテヤ人への手紙 2章19−2章21節
2014年 9月28日(日) 
 『私はだれでしょう』
                小林 正則師(マス小林)
コロサイ人への手紙 1章13−23節
2014年 9月 7日(日) 
  『イエス様はなぜ<たとえ>を語られるのでしょう』
                飯島 勅師(拝島バプテスト教会)
マルコの福音書 4章1−12節
2014年 6月22日(日) オープンチャーチ
 『絶望・・・その先にあるものとは』
                漆間 英幸師(青葉キリスト教会)
列王記第一 19章5−16節
2013年 9月29日(日) 相模原牧師会講壇交換
  『愛するようにと召されて』ダン・マックストン師
ヨハネの手紙第一 3章16−18節
2013年4月7日(日) 特別メッセージ

 カリフォルニアのサンディエゴにあるコンバージワールドワイドのLifeBridge教会牧師ダンマックストン先生をゲストに迎えてメッセージを取り次いでいただきました。
 ギリシアの語で「カレオー」という言葉があります。それは「呼ばれる」「召される」という意味があります。イエス様が私達と出会ってくださったとき、私達が自分自身のように隣人を愛するようにと招いておられるのです。
 Tヨハネ3:16-18には神様の愛が書かれていますが、私達の愛とは異なっています。神様はイエス様を信じる人々をそのような神様の愛〜3種類の、私達が愛することが難しい人々を愛する無条件の愛〜に招いておられるのです。
 愛することが難しい人々の第1はマタイ25:31-40にあるように「最も小さい者たち」です。私達は、そのような人々の回りにいると不快かもしれませんが、乗り越えて愛さなければなりません。
 第2は自分より勝っている人々のことです。私達は嫉妬するような相手を愛することは難しいのです。しかしヨナタンは、父サウルとは異なり、そのような相手であるダビデを愛したのです。
 第3はマタイ5:43-45aにあるように「自分の敵」となるような人びとです。あなたを傷つけ、裏切るような人々です。しかしイエス様は山上の説教で、そのような人々を愛するようにと教えられたのです。
しかし神様はイエス様にあって、そのような人々を愛するようにと召しておられる、私達を神様の愛に招いておられるのです。無条件で私を愛して下さったように、無条件で他の人も愛することが出来ますように。
 『主の計らいを忘れるな』沼澤 克己師(京浜キリスト教会)
詩篇 103編1−22節
2011年10月30日(日) 相模原牧師会講壇交換