ときめき part 3



ドブロヴニク(クロアチア) 2006年7月


ドブロヴニクは、クロアチアの南端に位置し、「アドリア海の真珠」といわれる。


中世から、ヴェネチアと並び、地中海交易で栄えた。









13世紀に30年の歳月をかけて造られた城塞都市で、1周約2キロの城壁に囲われている。
城塞はアドリア海に突き出すかたちに築かれている。











13〜14世紀にかけての一時期、ヴェネチア共和国の支配下にあったが、1418年、自由独立都市、「ドブロヴニク共和国」となって、1808年ナポレオンに征服されるまで存続した。










城塞に囲われた旧市街は、「世界遺産」に指定され、国内屈指の観光地となっている。












夜になると、旧市街全体がライトアップされ、紺碧のアドリア海に浮かぶ清楚な真珠から、成熟した大人の雰囲気を漂わせる街に変身する。











1991年クロアチアが、ユ−ゴスラヴィア連邦からの独立宣言をすると、セルビア人主導の連邦軍が攻撃を仕掛けてきて、内戦になった。連邦軍は、この都市の背後に聳えるスルジ山から、何千発もの砲弾を撃ち込み、甚大な損害を与えた。








内戦終了後、逞しい努力が続けられ、現在、完全に修復が完了している。
ただ、いくつかの戦傷跡は、記念として残されている。
中世の城壁や建物などが、こんなに良い状態で保存されているのは世界でも珍しい。
また、貴重な遺産を、後世に何時までも引き継ごうとする、人々の熱い思いが伝わってくる。

 



スプリット(クロアチア)

 スプリットは、人口20万人、クロアチアのアドリア海沿岸では、最大の都市である。
新市街では、造船をはじめとした産業も盛んである。

西暦305年に、ローマ帝国皇帝を退位したディオクラティアヌスが、退位後の宮殿をこの地に建設して、余生を過ごした。
皇帝がこの地を選んだのは、生まれ故郷が近くにあったからである。

ディオクラティアヌス帝は、解放奴隷の子から身を起こして、ローマ帝国を再建した。
また、キリスト教を弾圧した最後の皇帝で、初めて自らの意思で退位した皇帝といわれている。

皇帝の死後数百年たって、すっかり廃墟と化した宮殿に人が住みつくようになり、1千数百年の歳月をかけて、何とも摩訶不思議な街並みが出来あがった。

宮殿内には、大聖堂や神殿が今も残っているが、さまざまな時代に造り足された建物と渾然一体となって、史跡群が出来上がっている。
旧市街は「世界遺産」に指定されている。




上から1番目の写真
宮殿の玄関口に当たる部分。


上から2番目の写真
海岸通りに面した宮殿の外壁を利用して造られた住居群の奇観。


上から3番目の写真
旧市街、宮殿に面した海岸。


上から4番目の写真
新市街の風景。


2006年7月



クロアチアのアドリア海 2006年7月

クロアチアの海岸線は、北のイストラ半島から南のダルマチア地方まで、総延長で700Km、数百個の島嶼が、海岸線に沿って点在する。

そして、多くの島嶼と入り江に恵まれ、複雑な海岸線を有し、船舶の寄港に最適の条件を備えている。昔から、東地中海交易の航路が、クロアチア側であつたことが納得できる。

クロアチアのアドリア海は、ヨーロッパ屈指の保養地で、西欧・中欧・東欧の各国から沢山の人々が押しかけて来る。

紺碧の海は、女神が宿っているのではないかと思うほどの神々しさである。

また、クロアチアは、ヌーディスト・ビーチのメッカとしても有名である。
政府観光局は、格好をつけて、「ナチュラリスト・ビーチ」と称しているが、政府公認のビーチが30箇所以上もある。





トロギール(クロアチア) 2006年7月

古都トロギールは、紀元前4世紀頃に、ギリシャ人が植民地として建設した都市である。
その後、ローマ帝国の支配下に置かれ、ローマ軍が撤退したあとも、ラテン人の住む町として発展してきた。

トロギールは、東西500m、南北300mの島で、島全体を城壁で囲って、街が造られている。敵の侵攻に備え、もともと陸続きであつたところを運河をつくって切り離し、島にしたと伝えられている。
島と本土は1本の橋で繋がっている。

城壁をはじめ、街には歴史的な建造物が沢山残っているが、ことに13世紀に建てられた聖ヤコブ教会は著名である。
勿論、この古都は「世界遺産」に指定されている。
ゆっくり滞在してみたい古都である。
ダルマチア地方最大の都市スプリットから、西へ23Kmの距離である。


ザダール(クロアチア) 2006年7月

ザダールは、北部ダルマチア地方の中心的な都市で、紀元前9世紀から先住民のイリュリア人が住んでいたが、ローマ人との長年にわたる戦いに敗れ、紀元後1世紀、ついにローマ帝国が支配するところとなった。

ローマ帝国は、ここをダルマチア地方最大の拠点として、ローマ式の都市を造った。

その後も、ビザンチン帝国、ヴェネチア共和国、イタリアと、第2次世界大戦が終了するまで、他国に支配される運命をたどった。

旧市街を散策していたら、ローマ遺跡の発掘作業現場に遭遇し、改めて歴史的な街であることを認識した。

上の写真
背後の筒型の奇妙な建物は、9世紀に建てられた聖ドナット教会。

下の写真
1543年に建立の「陸の門」と呼ばれる城門。

 



シベニク(クロアチア) 2006年7月


シベニクは、クロアチアのアドリア海岸部のほぼ中央、ダルマチア地方最大の都市スプリットから80Kmほど北にある。


旧市街には、中世の街並みが残る歴史的な街である。








1431年から120年以上の歳月をかけて造られた聖ヤコブ大聖堂。

レンガや木材を全く使わない石造建築の教会としては、世界で一番大きく、「世界遺産」に指定されている。









遺跡や教会、建物などを見学すると、いろんな想像が湧いてきて、興味つきないが、、この街のようにカラフルで、のびやかな街角を散策すると、好奇心が刺激され、また違った楽しみがある。












歴史的な街も、夏季には、ヨーロッパ各国から大勢のバカンス客が訪れ、明るく開放的な雰囲気に包まれている。



オパティア(クロアチア)
  2006年7月

 
オパティアは、「クロアチアの貴婦人」と称えられ、クロアチアの最高級のリゾート地である。

15世紀に修道院が建てられ、まわりに集落がひろがり、街が形成されていったと伝えられる。
オパチアは、クロアチア語で修道院を意味する。






19世紀に入って、ウィーンのハップスブルグ家の貴族が、風光明媚、温暖な気候、ウィーンから最も近い海岸、などの条件に着目して別荘を建て、それを契機に、瀟洒なビラの建ち並ぶ高級リゾート地に発展していった。








現在、それらのビラの多くが、ホテルになっている。

19世紀から20世紀初頭にかけて、オーストリア・ドイツ・スウェーデン・ブルガリア・ルーマニアなどの皇帝、国王、王族やプッチーニ・マスカーニ・マーラーなどの作曲家、作家チェーホフも滞在したと聞かされた。






街の海沿いには、ゆっくり数時間をかけて歩ける遊歩道が造られている。

紺碧のアドリア海を眺めながら、爽やかな潮風を胸いっぱいに吸って散策をしていると、、「ああー、旅に出てよかったなー」と、何ともいえない幸せな気分になる。




プリトヴィッツェ湖群国立公園
(クロアチア)2006年7月

 
プリトヴィッツェ湖群国立公園は、クロアチアの首都ザグレブの南方110Kmに在り、面積は200Kuである。
規模は琵琶湖の3分の1といったところである。

公園内には、16の湖と92の滝がある。
標高630mから標高483mの地点まで、16個の湖が階段状に続き、湖から湖へ、滝や早瀬となって水が流れ落ちている。

湖や滝の絶妙な配置、ブナやモミの自然林に囲われた渓谷、エメラルド・グリーンの湖水、1千種以上の植物群、石灰が堆積してできた湖堰などなど、この公園の持つ独特の自然美によって、「世界遺産」に指定されている。

宿泊した公園内のホテルの周辺では、早朝から沢山の鳥たちがさえずり、夜には蛍が乱舞していた。


ザグレブ(クロアチア) 2006年7月

 
ザグレブは、 1991年のクロアチア独立後に、首都となった。人口80万人、さながら小ウィ−ンといった感じの街である。

アドリア海から直線距離で、110Kmの内陸部にある。アドリア海と内陸の間には、ディアル・アルプスが縦走し、両地方を分断している。

そのため、内陸地方はオ−ストリア、ハンガリーなどと同じ中欧文化圏、アドリア海沿岸地方は地中海文化圏、と言える。また、ロ−マ軍の宿営地の遺跡なども見つかっている。

上の写真、聖母被昇天大聖堂。13世紀から500年の歳月をかけて建てられたが、1880年の大地震で崩れ、その後、ネオゴシック様式で高さ150メ−トルの鐘楼を2つもつ、現在の姿に修復され、街の目印となっている。

中の写真 、聖マルコ教会、中世に創建られた教会で、特徴的な屋根瓦は1882年の修復の際に、造られた。向かって左側の図柄は、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアの3つの紋章を組合わせ、向かって右側の図柄は、ザグレブの市章。

この寺院のあるマルコ広場には、国会議事堂、政府官邸、最高裁判所など政府の中枢機関が集まっている。

下の写真、イェラチッチ広場。広場の名前は、19世紀ハンガリ−王国からの独立運動の闘士で、クロアチアの英雄と称えられるイェラチッチ総督に由来する。
広場中央に、その騎馬像が建っている。
広場の北側が旧市街、南側が新市街である。
パステルカラーの建物、



ブレッド湖(スロヴェニア) 2006年7月



 オーストリアの中西部にあるクラーゲンフルト空港から、車で、ユリアン・アルプスのカラバンケ山地を越えて、約1時間程で、「アルプスの瞳」と称えられるブレッド湖に到着する。








湖畔から手漕ぎの観光船(上から3番目の写真)に揺られて、「聖マリアンヌ教会」のあるメルヘンチックなブレッド島(上から2番目の写真)に渡ることができる。

この教会での挙式が、スロヴェニアの若人たちの憧れであると聞かされた。









この島の船着場から、花嫁を抱きかかえて百段の石階段を昇るために、花婿は、忍耐力と腕っ節、足腰を余程鍛えておかねばなるまい。









湖水は、夏とはいえ、結構つめたい、老婦人が2人遊泳中で、観光船のわれわれに向かって、陽気に手を振ってきた。

湖の北東部の崖の上には、11世紀に建てられたブレット城がある。そこからの眺望が、また素晴らしい(上から4番目の写真)。



リュブリャ−ナ(スロヴェニア)
2006年7月

 リュブリャ−ナはスロヴェニア共和国の首都で、14世紀から20世紀初頭までハップスブルグ家の支配下にあった。人口27万人の小都市ではあるが、小粋で文化的な香りに満ちている。

街は、写真に写っているリュブリャ二ツァ川の周辺に広がっている。橋は3本橋、中央の橋が車道、両側の橋が歩道となっていて、街のシンボルとなっている。

旧市街の東南部にある丘の上には、リュブリャ−ナ城があって、そこから街並みが一望できる。下の写真は、コングレスニ広場に面したリュブリャ−ナ大学。

スロヴェニア共和国は、イタリア、オーストリア、ハンガリー、クロアチアと国境を接し、面積は日本の四国とほぼ同じ、人口は199万人に過ぎない。

小国とはいえ、かって旧ユーゴスラヴィアを構成していた国々の中では、最も経済力に富んだ国といられている。



ボストイナ鍾乳洞(スロヴェニア) 2006年7月

ヨーロッパ最大といわれるボストイナ鍾乳洞は、リュブリャ−ナから列車や車で1時間で行ける。現在、発見されている鍾乳洞は全長20Kmに及ぶといわれている。

鍾乳洞内の観光は、トロッコ列車での見学2Km、その後、徒歩見学1Kmのコ−ス設定となっている。発掘された石器などから、5000年以上前に原始人がこの鍾乳洞に出入りしていたことが分かっている。



Boka Kotorska湾( モンテネグロ) 2006年7月


ボカ コトルスカ湾はアドリア海の湾口から内陸部へ複雑なかたちで入りくんでいる。












湾の最奥部にある古都コトルまで、湾岸道で約60Kmの距離がある。










国名のモンテネグロは「黒い山」を意味する。

この湾の周りは、おどろおどろしい山々に囲われ、たびたび出会う神秘的な景観は、中世にタイムスリップしたのではないかと錯覚してしまうほど、驚きに満ちている。



コトル(モンテネグロ) 2006年7月


コトルは、Boka Kotorska湾の最奥部に位置する。

「世界遺産」に登録された中世の城塞都市で、荒々しい山と城壁に囲まれている。
背後の山は標高1749mのロヴツェン山で、山腹には城砦も築かれている。








城塞の内部が旧市街で、12世紀〜13世紀に建てられた聖トリフォン大聖堂をはじめ中世を偲ばせる教会や建物が沢山残っている。











1979年の大地震で、甚大な被害を蒙ったそうだが、一見しただけでは何も気付かない。













現地のガイドに勧められて購入し、持ち帰った赤ワインは、なかなかこくのある逸品であった。また飲みたいなと思うが、飲み尽してしまった今となっては、叶わぬ夢となってしまった。



ポスニア・ヘルツェゴヴィナの海岸
2006年7月

 ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、国土面積が北海道の6割、人口400万程の内陸国である。

しかし、国土がほんの少しだけ、アドリア海に小鳥のくちばしの様に突き出し、クロアチアの国土の最南端の尾っぽの部分を意地悪く分断している。

その海岸線は10Kmにも満たないが、素晴らしい保養地となっている。