彼女はうつむき、駅のホームに佇んでいるだけだった。
純白のワンピースに身を包み、夏の日差しを避けるようにして電車が来るのを待っていた。
いつもと同じ時刻、同じ場所に彼女は居た。その事に気が付くまでにどのくらいの時間が必要だったのだろう。

想い出は力を持つ?そんな陳腐な言葉でさえ十分な意味を有する事を知った。


最初に見かけたのが何時だったのかは定かでない。
多数の人間が飲み込まれ、吐き出されていくホーム。いつもすれ違っていたのかもしれないし、 たまたまあの時が初めてだったのかもしれない。僕が彼女の存在を認識したのはほんの些細な出来事ではあった。

ふと僕が本から視線を上げたとき、すぐ側に彼女が居た。スーツを着込んだ男性が彼女の方へ向かい、そのままぶつかっていった。
彼はまるで何も無いかのように彼女の身体を通り抜け、そのまま階段へ向かっていった。
唖然としながら目を彼女の方に向けると、まるで風一つ起きなかったかのように何も変わらない姿がそこにあった。

電車が通り過ぎ、一陣の風が吹いて本のページを押し流してしまってもなお、彼女の服は髪の毛一筋分さえ揺れることがなかった。

それから僕は駅のホームに立つと彼女を捜すようになった。
見つけても何をするということなく、ただ眺めていた。
思い返せば、いかにも現実味の無い女性だった。むしろ存在しないと断言された方が納得できるような。
込み合ったホームにいてさえ彼女は平然と佇んでいた。幾人もの人間が彼女の身体をすり抜け、重なっていった。
それでも彼女は身じろぎ一つせず、また群衆も彼女には気付きもしていないようだった。

幽霊

そんな単語が脳裏を横切った。まさにはっきりと、その言葉を体現した存在であった。 ゆったりと駅のホームに佇む女性。何故僕にだけ見えるのだろうか。
彼女を呆然と眺めていると、幾人もの人たちが怪訝な顔をして横切っていく。
ぶつかってきたOLに簡単な謝罪の言葉を述べ、僕も群衆の一人になった。

結局の所、僕はただ眺めていただけだった。話しかけることに恐怖を感じた。いつも僕は電車に乗り、彼女はホームに佇んでいた。
そんな日常が幾度となく続いた。僕の服が秋色に変わっても、彼女はいつも純白のワンピース。 白い肩を剥き出しにして、ただホームに立ちつくしている。
刻々と変化していく日常の風景にあって、彼女の停滞は不可思議でさえあった。 彼女は本当に幽霊なのかもしれず、もしくは僕の病んだ心が生み出した幻覚かもしれなかった。

秋が深まり、いつもの時間から少し遅れた昼下がり、駅はほんの小休止にはいる。その時間を見計らい、僕は駅に向かった。
空いたホームで、やはり彼女はそこに居た。いつもと変わらぬ服装、いつもと変わらぬ憂いを浮かべた表情で、そこに居た。
「すいません」
彼女を見かけてから数ヶ月、ついに僕は確かめてみる気になったのだ。彼女がそこに居るのか、居ないのか。
声をかけた瞬間、彼女は顔を僕に向けた。彼女の目には純粋な驚きと怯えが見て取れた。
「あ、な・・・なんでしょうか」
彼女が幽霊であるというのは僕の妄想に過ぎなかったのだろうか、そんな思いがよぎるほど、彼女の仕草は生きていた。
「・・・誰かをお待ちになって居るんですか」
確かに彼女はそこにいる。それだけで僕の好奇心はほぼ満たされた。しかし。全てがおかしかった。
「いえ・・・待ってなんていません」
そう言うと、おもむろにこちらに向かって手を伸ばしてくる。
「・・・あなたは私がわかるんですね・・・」
寂しそうに呟く彼女の視線を追う。そこには僕の肩に埋め込まれた彼女の手の平。
「でも、触れることが出来ない」
手を当ててみる。多少細い僕の手はさらに細い彼女の腕を簡単にすり抜け、肩に触れて止まった。
「どういうことです?」
背筋に寒いものを感じ、手を握る。
「私は誰にも気付いてもらえないの」

諦めたようなくぐもった声だった。
「ここは全てが逆の世界・・・文字も風景も、全て逆さま。どうして私がここにいるのか、 どうして誰も私に気が付いてくれないのか・・・どうしてここから動くことさえ出来ないのか。私には解らない・・・」
口元には微笑が浮かんでいた。
「私には解らないの」
幽霊だからではないのか。僕の脳裏にはそんな言葉が明滅していた。
「逆さ?」
その言葉は言いかね、代わりに別の疑問を出す。
「ええ、まるで鏡みたいに。あの看板も時刻表も、全部逆さなの」
そういうと、彼女はメモ帳を取りだしてなにやら書き始めた。
「あなたにはこれがどのように見えますか?」
のぞき込むと、文字とイラストで埋め尽くされた、もはや書く所など何処にも見あたらないようなメモ帳の端に何かの文字が書かれていた。
「鏡…ですね」
なぞるように読んでみる。
そこには彼女の名前が書かれていた。
「やはり鏡ですか」
寂しそうに呟くのをどうする事も出来ずに見つめていた。

あれは一体どういうことだったんだろう。
駅を立ち去りながら考えずにはいられなかった。幽霊は鏡の世界で「生きている」?そんな話聞いたこともない。彼女は今も、混雑したホームの端に立っているはずだ。
誰にも存在を解ってもらえず、時間の感覚も無く、動くことさえ出来ない鏡の世界。
「いやだな、そんなの」
呟く。彼女が死んでいると決まったわけではない。しかし、あの状態を納得しようとするならば幽霊として理解した方が最もしっくりくる。
死んだって霊界には行かないのかな。この世界で鏡に閉じこめられるのかな。
頭の中で考えを散らかしながら、僕はもう一度駅の方角を振り返った。
大きな木が景色を阻んでいた。

彼女とはそれから何度も出会った。駅を利用する僕にとって、出会わずにいることは非常に難しい。しかし人の流れがあるときに話しかけることは無かった。 何も無いかのように無視を続けた。他人には彼女は見えない。奇異の目で見られることを避けたかったのだ。彼女も心得ていたのか、視線を外して俯いていた。 人の身空よりも己の世間体を大事にしているのではという考えが負い目となっていたのだろうと思う。彼女と接するために時間を合わして出向くことも多くなっていった。

「現実ってなんでしょうか」
閑散としたいつものホーム、僕はベンチに腰掛けて彼女の話を聞いていた。
「ずっと思っていたんです。私は確かにここにいます。でも誰もそれに気付かない。空腹を感じることも、眠くなることもない」
隣に腰掛けていた彼女は顔を上げてそこまで言い切ると、ふっと地面を向いた。
「胸に手を当てると、確かに鼓動を感じます。息もしている、涙も出ました。それでも、自分が生きていると断言できない」
口を開こうとした。が、何も言葉がでてこない。何を話せば彼女は楽になれる?笑える?
不意にある考えが浮かんだ。
「不安なものですよ、自分が何者になってしまったのかさえ解らないなんて。生きているのか死んでいるのかさえ解らないなんて」
彼女はそこまで言ってから悩んでいる僕の顔を見たのか、慌てたように付け加えてくる。
「だけど今はあなたが私の声を聞いてくれていますからね、確かに自分がここにいると信じられるんですよ」
無理に笑おうとしている彼女の言葉、しかし僕は別のことを考えていた。
「あの」
「はい?」
意気込んで振り向くと、こちらを向いて話していた彼女とまともに向き合う形となった。正直、綺麗だと思った。鏡の世界に閉じ込められたお姫様。
「あなたの名前と住所、もう一度ちゃんと教えてくれませんか?」

初めからこのことに気が付かなかったのが不思議だった。彼女のメモ帳は僕には持てない。そこで逆さの文字を丁寧に手帳の紙に写し、僕は家に戻った。携帯用の鏡を使って読みとってみる。
伊藤 深緑
・・・・・・みどり、と読むらしい。
年齢は22歳、僕より4つ上である。彼女の姿を思い出し、納得する。妙に哲学がかった言葉使いまで思いだし、メモの横に付け加えておく。住所は隣町のものだった。
これだけ解れば十分だ。

次の日、僕は彼女の住所を尋ねた。彼女が何者かは、そこに行けば容易く解るに違いない。もし誰もいなければ、 警察に家出人なりなんなりの確認を取ってもらうことも考えた。しかし、その必要はなさそうだった。
途中、道を尋ねながら目的地を目指す。気分は高揚していた。
「伊藤さんのお宅はこの道を曲がって・・・」
そんな他愛ないやり取りも、彼女が現実に存在する証と受け止められる。
やがて、一軒の古い家屋を前にして僕は足を止めた。
『伊藤』
住所をもう一度確認する。間違いない、ここだろう。僕は勢いに任せ、チャイムに指を押し込んだ。

いつものホームには、いつも通り彼女がいた。僕に気が付くと、白いワンピースを振り払うようにして立ち上がった。
「どうでした?」
結果が気になるのだろう、何気なく緊張しているように顔を上気させていた。
「君の両親と会ってきたよ」
伸ばせば手が触れそうな位置まで近づくと、僕は言った。
「伊藤 深緑、君の名前を出したら凄く驚いていた」
落ち着かなければならない。大きく息を吸って、そして吐く。
「そう、良かった・・・」
彼女の呟く声、現実との接点が増えた安堵だろうか。何も考えないように僕は続けた。
「深緑というのは、10年も前に行方不明になった娘だそうだ」
動きが止まった。
「暑い夏の日、扇風機も電気も、飲みかけのお茶すらそのままに部屋から消えてしまったんだって言っていた」
彼女の顔を見ながら話す。それ以外に何もできない。
「方々手を尽くして探し回ったそうだ。警察にも確認してきたけど、まだ行方は掴めていないって」
結局僕は彼女の寂しそうな顔しか見ることが出来ないんだと思う。
「でも」
微妙に歪み始めた顔を見ながら続ける。
「深緑さんの部屋は全くそのまま残っていた。いい加減古い家で、引っ越しては、建て替えてはと何度も言われたらしいけどずっと断っていたそうだ」
娘が帰ってきたときに、元の暮らしが出来るように。
「はやく帰る方法を見つけないとね」
「・・・でも、そんなに簡単にはいかない・・・」
彼女の持っていたカバンがアスファルトに落ちる。ぱさ・・・
「あれ?」
違和感を覚えた。微かにではあるが。
「あ、ごめんなさい」
泣き笑いの声で彼女がカバンを拾い、ベンチに置く。とさ・・・
「・・・・・・」
何かおかしい。僕はカバンに手を伸ばしてみた。一瞬、細かく切った紙に手を入れたような非常に軽い感触を覚える。そのまま手は向こう側へと突き抜けた。
「もしかして」
振り返ると、彼女の肩に手をかけた。わずかに感触を感じたが、そのまますり抜ける。
「あ・・・」
彼女も気が付いたのだろう。僕の方へゆっくりと手を伸ばす。わずかな衝撃とともに手は胸の中に吸い込まれた。
「触れるようになった」

それはほんの小さな進歩に過ぎなかった。しかし、彼女が「こちら」に戻ってくる方法を掴むには十分な進歩でもあった。
「それで・・・」
僕は彼女から様々な想い出を引き出しにかかった。通っていた学校の名前、仲のいい友人、好きなドラマ・・・彼女は殆ど覚えていなかった。それでも思い出させるように努めた。 その一方で彼女から聞き出した友人に会いに行き、無理をいってアルバムや一緒に受けた授業のノートを借りた。友人は、僕の話を聞いて興味を覚えたようだった。
「ねぇねぇ、あたしも行って良いかな」
その申し出は非常に有り難かった。同時に、彼女を心配している人が大勢いたことに嬉しさがわき上がる。
僕は伊藤夫妻にもお願いした。彼女は人に、昔に触れるたびにその存在をはっきりさせていった。僕以外の人にも姿が見えるほどに。
それは由々しき問題となった。駅を利用する人が、「幽霊がいる」と騒ぎ始めたのだ。
見えると言っても、まだ背景にとけ込みそうな彼女の姿は、幻影と呼ぶに相応しい。知らない人には、それは幽霊以外の何者でもなかった。
「そろそろ外に出よう」
彼女がここから動けない理由、それは彼女の友人からの情報によって予測がついていた。しかし試してみるしかなかった。

真夜中、駅に忍び込んだ僕は彼女の背中を押すようにして階段を登らせた。半ばまで上がったとき、彼女の目から突然涙が零れだした。
「い・・・いやよ・・・ここから離れたくない」
「離れるしかないんだ」
「ここから離れたら・・・私は・・・」
彼女はまだ思い出していない。おそらくそれが彼女を縛り付け、自分を消したいと願った原因。
「離れたらどうだってんだ」
しかし、だからこそ僕は無理にでも動かしたかった。そんな自分にいらいらした。
「思い出してみるんだ」
強く声に込めて言う。容赦する余裕はどこかに吹き飛んでいた。
「君には彼氏がいた。そうだよな」
彼女が震えた。僕としては忘れさせたかった。でも、出来ない。それが彼女を縛っている。
「その男は君を捨てて逃げた。」
「なに・・・それ・・・」
怯えたように後ずさるのを制し、僕は続けた。心に激痛が走った。
「二股、というわけだ。君はそれに気が付き、男は逃げた。男はこの街の人間だ。多分君は奴が戻ってくるまで待っていようとでも思ったんだろ?奴がよく使うこの駅で」
今、僕はひどいことを言っている。男はいま、結婚して別の街にいる。彼女の元に戻ってくることはもう無い。
「・・・それは・・・本当なの?覚えて・・・ないわよ・・・」
「じゃあなんでここにいる必要があるんだ?言ってみろよ」
彼女の腕を掴んで引き寄せる。その感触は今まで以上にはっきりと伝わってきた。彼女が過去を取り戻している証だ。
「寒いわ・・・」
秋も深まった真夜中、夏用のワンピースに身を包んでいる彼女は本当に寒そうだった。しかし、そんな格好で10年の季節を通り抜けてきたのだ。 それは、暑さも寒さも感じることの無い空白の10年だったはずだ。ただ風景を眺める、そんな意味のない10年だったはずだ。
「思い出した・・・気がする。とても哀しくて。辛くて。生きているのが苦痛で」
「・・・そうか」
「なにもかも厭になって」
「・・・そうか」
「自分が消えてしまえばいいって思った」
「・・・」
「夢の中でさえ苦しくて、起きたくなくて」
「・・・」
「気が付いたらここにいた」
「・・・」
「誰も自分を見てくれない」
「誰も話しかけてくれない」
「誰も解ってくれない」
「誰も愛してくれない」
「・・・」
「自分で望んでいたの、でもそれさえ忘れていて。人に迷惑かけて。最低だよね」
泣きながら呟き続ける彼女を、思い切り抱きしめた。
「ああ、最低だ。自分勝手に絶望して、逃げ出して・・・」
彼女の不安定さが、却って自分を取り戻しているように感じた。
「未練がましく10年もこんなところで立ちつくして・・・」
力を込める。彼女が苦しそうに息を吐く。
「でも、もういいじゃないか。十分君は苦しんだ。苦しみすぎた」
熱い息を吐く口を、ゆっくりとふさいだ。彼女の体重がしっかりした存在に変わるまで。

「戸籍上じゃ、もう33歳なんだよな」
あきれたように僕は息を吐いた。
「いいじゃないの、18歳」
楽しそうに笑いながらハンバーガーを口に運ぶ。こちらの苦悩なぞ気にした様子もない。春の訪れはすぐそこにある。 しかし彼女は厚手のセーターに身を包み、毛糸のマフラーで完全武装していた。
「まぁいいけどね」
気にさえしなければ何も問題はない。彼女の実家ではそろそろ準備が終わっている頃だ。
彼女が食べ終わったのを見計らい、席を立つ。
「もうそろそろ行くか」
「そうね」
時が戻ってから初めての誕生日、両親の感慨も並大抵のモノではないだろう。妙に張り切った顔が印象に残る。そして・・・
ダストボックスにゴミを返す彼女を見やってから、後ろポケットに入った小さな箱を確認する。

中には小さな贈り物。安物の、精一杯の贈り物。


――――F i n