黒い何かが音もなく路を横切り、俺に気付いてかそれはこわばり動きを止めた。 黒い毛並みをした猫だ。
 月の光も星の輝きもなく、しかし決して闇ではない夜の世界に、金色の瞳を印象的に輝かせてこちらを睨んでいる。 最近、大小様々な猫が朝夕を問わず、 多く見られるようになった(人の数には遠く及ばないが)。 駆け去る猫の後ろ姿を目で追い、 俺はジーパンのポケットに手を突っ込み潰れたメンソールの煙草を掴み出すと、 レストランバーの 店名が入ったライターで火を付けた。咽喉に、肺に流れ込む濁った霧がけだるい吐き気と目眩を 引き起こすまで、 俺は何本も吸い続ける。




 朝は重い。ゆらゆらと水を掻くように、アルコールの中毒症状にも似た動きでベッドから這い出る。肩口に痛みを感じ、 胸に痛みを感じ、脳に痛みを感じてようやく意識がはっきりする。水で顔を洗い、疲れの残滓を振り払ってからふと鏡の顔を睨み付けてみた。 そろそろ 世間を騒がせ始めた予言者の戯言を思い浮かべ、下に乗せてみる。 世紀末、世紀末。
「未来が解ったって、人生をくだらなくするだけじゃねぇか」
 夢も何もかもなくなってしまう。そんな生き方するくらいならさっさと死んだ方がずいぶんましだろう。 しかし、今の自分はどうなのだろうか。 夢も希望もない世界に生きているのではないか。コンビニで買ったパンを囓って学校へと行く、繰り返しの日常でよく思う。
 大学は単調、生活も単調。変化はなく、故に成長もない。萎びて老いを待つ一年草のように机にまとわりつくため、ひたすら変わらぬ道を通り、 電車に詰め込まれて校舎に向かう。そんな日常、何処かが確実に壊れていくのが解り、いっそう不快になる。






 冬が老い、雨が多くなった頃。俺は小さな種を拾った。それはこじんまりとした学生食堂の、磨かれたテーブルに一つっきりで転がっていた。 菱形をした緑色の種(こんな色は見たことがない、そう思うほどに印象的な緑だった)が、このままでは己がいずれダストボックスに放り込まれて 焼かれるということを知っていたかのようで、必死に色を輝かせている。掌に載せると、それは安心したのか、ほのかな暖かさを伝えてきた。
 帰宅するとすぐ、 俺はその種を何処に蒔くべきか考えた。何故こんな事をするのかと馬鹿らしくなったが、とりあえず昔枯らしたハーブの小さな植木鉢を使うことにした。

 次の日からその植木鉢に水を遣ることが日課となった。なかなか鉢に変化は見られなかったが、何かが芽を出すという絶対的な自信が俺の中にあった。

 そうして春が産まれ、学校が休みに入ったある日の朝。目を覚ますと部屋の中に甘い香りが漂っていた。種の鉢からだった。そして鉢の僅かに盛り上がった土の隙間から淡い緑が覗いていたのだ。

 次の日からそれは急激に成長を始めた。そして、毎朝異なった香りを俺に提供してくれた。たった一週間jほどでハーブの鉢一杯にあの種の頃に持っていた色を思わせる鮮やかな緑が茂った。その葉は絹の柔らかさで撒いた水の粒を弾いていた。

 それは清純な女神像のようにも日替わりで香水を変える娼婦のようにも思えた。そjして、同じ姿を二度見せることはなかった。俺は刻々と生育していく様子に完全に心を奪われていくのを自覚していた。






≪始まりの樹≫

 そう俺は呼んだ。

 最近いきいきしてるね、と女友達が顔をのぞき込みながら不思議そうに言った。多分、そうなのだろう。俺は香りに包まれる事で今日という世界が始まるたびに新しくなっている。昨日、という薄汚れた皮を淡い剥がしていくたび、「本当の自分」というものが姿を現してくるように思う。

 春が老いたとき、≪彼女≫を庭に植え替えた。日々姿を替え、香水をふりまくその樹を俺は女と思うことにしていた。部屋から万色の香りが無くなってしまうのは寂しく、半身を削られてしまうようで辛かったが、その代わり、印象的な純白の小さな花を一杯につけてくれた。 ≪彼女≫の身体はもはや家にあったどんな鉢でさえも賄いきれないほどに成育していたのだ。 エメラルドに輝く葉を透かすと、葉脈がぷっくりと膨らんでいる。それは美しい樹であった。 その所有者であることを誇る気持ちなど持ち得なかった。庭に移すことで全ての人間が≪彼女≫を見る権利を有することになる。それが最も我慢ならなかった。そして、そんな幼稚じみた感情を抱いてしまう自分に戸惑った。 本来、独占欲というものは薄い、と自己分析していたのだったが、どうやらそれはただの思い込みであったらしい。ただの樹だぜ、苦く笑いながら園芸書片手に庭へ彼女を植え直した。

 しかし予想に反して誰からもその樹に関した話題を聞くことはなかった。親、幾度か部屋に来ている友人に尋ねてみても、 「そんな樹があったのか?」と逆に不審がられるだけだった。何日も時を過ごすうちに、俺はある確信に至った。≪彼女≫は俺にしかその存在を現していない。土に根を張り、風に抗している確かな存在なのに何故なのだろう。誰もその樹に触れることさえ出来なかった。

 この世のものではないのかもしれない。

 もしかすると、この時間はふわついた夢の中で、現実ではないのかもしれない。

 俺はさして広くない庭の隅に腰掛け、さわさわと踊るその枝葉を眺め続けた。

 お前は何処から来たんだ、と語りかけていた。







 夏の盛り。蝉の声が激しさを増すころ、遂に庭から樹を運び出さなくてはならなくなった。理由は簡単。あまりにも育ちすぎて庭が手狭になったからだ。しかし、身の丈が俺の倍ほどもある樹木を動かすのはかなりの重労働である。 近くの農家から家具台車とスコップを借り、樹を掘り出して近くの林に植える。夜半から始めて、終わるのは恐らく夜明け頃になるだろう。 俺は覚悟を決め、林の中の奥まった相応しい場所を探しだした。そして、月が満ちたある晴れた夜に作業を開始した。闇を懐中電灯で照らし、思い切って錆の浮いたスコップを土に打ち込む。 と、そのとき、≪いたいっ≫と声が響いた。ウソだろう? そう思い、ゾッとしながら辺りを見回すが誰もいない。気を取り直して再びスコップを打ち込もうとしたとき、苦い匂いが辺りに漂った。 その瞬間、俺はあることに思い至った。それは考えられないことに思えた。そんな訳がない、そうではないはずだ、と。人の言語を持つのは人のみだ。しかし、希望とも畏れとも分からない気持ちを抱きつつ、声を出した。

「今、声を上げたのはお前か?」

 すると、よく茂った葉が頷くようにさわさわとなった。風から響くような声がしたように思った。





 作業は思ったよりも呆気なく終了した。その樹はまるで根が傷つけられるのを嫌がるように、己から土を軟らかくし、俺が掘り起こす手間を省いてくれた。 また、虫が寄ってこないように除虫菊の匂いを発散してくれさえした。林の中、木々の間にすっくと立つ姿は恰も数年来この場所に根を張っているかのように堂々としたものだった。

「もう一度話してみてくれないか」

 全ての道具を片付け、俺は幹に触れながら言ってみた。

≪・・ぁぁ・ら≫

 聴こえた。老若のはっきりしない声。しかし女性的だ。

≪もぅ・・・ょっ≫

 一枚の葉が密を幼虫に与える蜂のように小刻みに揺れている。その様子が非常にもどかしそうに見える。

「いや、いい。もう少し大きくなればしっかり話せるようになるんだろ? いつかお前と笑いあえるときが来るよな」

 幹を平手で軽く叩き、夜明けの林を後にした。







 空気が澄み、弓なりの稲穂が輝きを増しゆく。世界は滅亡せず、予言者は世紀のペテン師とされていた。台湾で発生した大震災こそが恐怖の大王だ、と主張する女々しい馬鹿も僅かに存在していたものの、 日が経つにつれて話のかけらにも上らなくなっていった。全てがセピア色に色づき始める秋、≪彼女≫は明瞭に話すようになっていた。若々しく透明なその声は社会の喧噪に染まることのない純朴さと文字通りの自然さを兼ね揃え、 その声を聞くたびに俺は海に、命の原点に還っていくような安らぎを覚えるのだった。

また、≪彼女≫は色褪せない葉も豊かなその枝に多くの杏色をした実を幾つも実らせており、どこか懐かしい甘さを辺りに振りまいていた。

「お前、最近変わったよな」

 久しぶりに学校へ行くと、友人に声を掛けられた。久しぶりに会うその男は何故か霞んで見えた。

「彼女が出来たんじゃねぇか? 紹介してくれよ」

 いやらしくにやついた声を適当に聞き流して俺は席を立った。そうかもしれない。≪彼女≫との生活は俺を根本から変えていったようだ。いつの間にか無意味なことに心を砕かれているという意識は消え、 全てが自分にとってなにがしかの種になっているという前進的な考えになっていた。今まで何かに打ち込めることなんてなかったが、 その何かを見つけただけでこれ程までに充実できるとは思わなかった。しかし、同時に不安を、虚無感を感じることがある。 一体≪彼女≫は何なのだろうか。それほど深くない林に在り、鮮やかすぎるほど美しいのに、俺以外の誰にも見えない樹。近寄れば優しい笑いとともにまるで愛撫するかのようにこの身体を優しく枝葉で包み込み、 外界から閉じた安らぎに沈めてしまう女性。女性のような、しかし樹木。満ち足りた日々。なのにどこか恐怖を感じる。不可侵の神聖なものを手にしているような恐怖を感じることがある。 それでも毎日林を訪れ、ともに過ごしてゆく。それだけで全ての穢れから洗われてしまう気になる。

「君は本当はなんなのか」

 聖女の生まれ変わりか。あの緑色をした種は凝縮された神の魂なのかもしれない。そういうと、≪彼女≫はくすくすと笑った。そのささやきも心地よい。

≪当たらずも遠からずって感じかしら。わたしは生み出す者よ≫

「一体何を?」

 俺は尋ねてみたが軽やかな笑いにその質問は羽ばたくだけだった。







 冬。全てが止まり、新しい時が準備を始める。真っ白に塗られた空間に、いきいきとした緑が不思議なほどに映えていた。 柔らかい雪が緑の葉に僅か積もり、洗いながら解けて流れる光景は神秘的だった。俺は枝葉によって寒さから遮断され、安息の極致にいた。 最早ここは林ではない。騒がしい車のエンジン音も煩わしい親や友人も何も存在しない。≪彼女≫以外には樹木さえ一本たりとも立っていない。ただ、無音。そして優しい時の波。



 ここは世界であって世界ではない。



 世界の卵



 ≪彼女≫の根は広く張り、少しだけ時間と世界を切り取った。その空間を苗床に新しい世界が創られていく。大きく膨らんだ幾つかの実からは青みがかった毛色の野兎や翼が4枚ある小鳥たちが産まれていた。 彼らは≪彼女≫を啄み、その歯を齧っては戯れている。落ちた葉には、虫達が棲み始める予定だ。地中深く張り巡らされた根は今も世界を広げ続けている。 そこから春、様々な草が芽を出すに違いない。俺が育った、あの世界の物は何一つとして存在していない、純白の世界。全くの白紙に色を乗せるように、不思議で美しい命がこの新しい世界を彩っていく。 俺はこれから見届けていくことになる。思い描いた命が実際に産まれ、この手を離れていく様を。命をデザインする。全く、、これは狂気の凝縮された行為ではないか。 もちろん、生き残れない種も多いだろう。それが淘汰であり、進化の始まりだ。いつか、この世界は色とりどりの植物に覆われた豊かな庭となる。そうすべく努力するつもりだし自信もある。 それでも限界が来たとき、俺は一粒の種をこの世界に落とさなければならない。

 そうならないことを、俺は祈っている。





  風が止まっている

  銀の世界に流れは眠る

  雪の丘

  今 世界は紙に落とした水滴のごとく

  じわりとひろがっていく

  そして時が生まれていく



 遠くで潮騒の音が聴こえる。

 おそらくは小さな、透明な海。先は遙か、長い。海の誕生を喜びつつ、俺はしばしの眠りに入った。







 世界樹。彼女と共に歩む俺はなんと呼ばれるのだろうか。