強い誓いと、ささやかな幸せ(とらハ2のネタバレを含みます)
…カタン。
手の中で、プラスチックのカップが小さな音を立てた。
…やっと、帰れるね―
今、わたしは東京行きの飛行機に乗って、お兄ちゃんの――愛する人の待つ日本へと向かっている。
わたしが国際救助隊の仕事に就いてから、もう三年になる。
国際救助隊の仕事は、楽じゃない…わたしが望んでいた仕事ではあるけれど。
世界を飛びまわり、普通の人が行けない所に行って、普通の人には出来ない事をする。そして救助をする。
だけど。
助けられる人ばかりじゃない。
地震や事故や、戦争で山のように積み重なった瓦礫。
助けを求める声に答えるために、それを動かす。あるいは、中に入っていく。
悲しみや痛みに泣き叫ぶ人々。
そして、それも出来ない物言わぬ「もの」との対面。
僅かな希望や期待を裏切られて泣き叫ぶ人々。
時には、やるせない怒りや悲しみを、ぶつけられたりもする。
でも、一番痛いのは。
そんな悲しみの中で、精一杯の笑顔をくれる人。
感謝の言葉をくれる人。
そして、助けが間に合わず、わたしの背中にある翼を見て、微笑むように息を引取る人。
どんなにわたしががんばっても、助けられない人は沢山いる。
そんな人達に逢うと、時々どうしようもないほど辛くなる。
何もかもイヤになって、逃げ出してしまいたくなる時もある。
だけど。
わたしの力で救う事が出来る人たち。
そして、救いを待つことしか出来ない人。
何も出来ず、祈ることしか出来ない人。
そんな人を助けたい……だからわたしは、頑張ってる。
世界の何処にでも、どんな危険な場所にでも向かっていく。
あの時の誓い。
くじけそうな時にも、支えてくれる人。
―――――――――――
無事に成田空港に着き、入国手続きを済ませたわたしは、すぐにあの人の待つ風芽丘へ向かった。
今回の帰国は、お姉ちゃんにもお兄ちゃんにも知らせていない。
今回は一時帰国で、すぐにまた発たなければいけないのもあるけれど…
本当の理由は、お兄ちゃんを驚かせたかったから。
そんな自分に、ちょっと苦笑してしまう。
色々なところに行って、色々なことをして、色々な経験をして。
わたしは随分変わったと…強くなったと思う。
でも、お兄ちゃんの前では、わたしはいつもお兄ちゃんと出会ったころのわたしに戻ってしまう。
それは、凄く心地よくて、暖かくて。
でもちょっと、悔しくて。
だから、たまには驚かせてみようと、思った。
(やっぱり、子供じみてるかなぁ…?)
内心で思いつつも、やめようとしないわたしは、やはり子供に戻っているのかもしれない。
電車とバスにしばらく揺られて、わたしはさざなみ寮のすぐ近くまでやって来た。
お兄ちゃんの…愛する人の待つ、この場所に。
今日私が帰ることは、誰にも知らせていない。
シェリーには一昨日ちょっと話したけれど、彼女もニューヨークにいるはずだし、姉さんから伝わるとしても、今日には無理だろう。
お兄ちゃんや寮のみんなに見つからないよう、力を使って浮かび上がる。
私の後ろから、見慣れた6枚の翼が展開する。
わたしはあまり詳しくはないのだけれど、この翼は、キリスト教に出てくる高位の天使と同じように見えるらしい。
あまり好きにはなれなかったこの力と翼そのものが、傷付き、疲れた人たちの支えになることもある。
…だから、今は好きになれた。
昔と同じように、わたしは寮の屋根へと着地する。
今はお昼過ぎだから、お兄ちゃんは多分ベランダに洗濯物を干しているころだと思う。
ベランダ側の屋根に腰掛けて、空を見上げる。
…あの頃と何も変わらない空。
何も変わらないここで…わたしはあの頃に帰っていく。
お兄ちゃんと初めて出会った…あの頃に。
「…知佳?」
わたしの後ろから、突然聞き慣れた声がして、私は後ろを振り向いた。
耕介お兄ちゃんが、何故かそこにいた。
「お帰り、知佳」
満面の笑みでこちらにゆっくりと歩いてくる。
「えっとえっと、…お兄ちゃんはどうしてここに?」
しおろもどろになりながら、わたしは聞き返した。
「なんとなく、ね。…知佳が帰って来るときなら、言われなくたって分かるさ」
そんなことを言いながら、お兄ちゃんはわたしを大きな胸に抱き締めた。
懐かしい、そして幸せな感触。
何も考えずに、久しぶりのそのままこの幸せな感触にうずもれてしまいたくなる。
何も言えなくなってしまう前に、わたしは一つだけ言っておくことにした。
「お兄ちゃ…ええと、…ただいま、耕介さん」
―――――――――――――――
ベランダから降りて、わたしは居間で耕介さんとくつろいでいる。
昔の癖で、二人きりの時は「お兄ちゃん」って呼んでしまうこともあるけれど、お兄ちゃんの――耕介さんの希望もあって、いまでは「耕介さん」と呼ぶことにしている。
「耕介さん」って、初めて呼んだのはいつだったっけ…
「――いや、お兄ちゃんって呼ばれるのはそれはそれで嬉しいんだけどな。だから、その、なんだ…」
時々、妙に子供っぽい反応をしてくれるお兄ちゃんが、とても好きで。
「なんで〜?…おにいちゃ〜んっ?(はぁと」
私は微笑みながら、ついからかってしまった。
お兄ちゃんにもそれが分かってしまったみたいで。
「…ち〜か〜っ。そんな娘に育てた覚えはないぞ〜?」
わたしは抱きすくめられながら、くすぐられて悶える。
「あははははっ、や、やめてお兄ちゃん、い、言うからやめて〜っ?」
「よし、分かった。」
お兄ちゃんはわたしから手を放すと、わたしの目をまっすぐに見た。
…こみ上げて来る恥ずかしさを抑えながら、わたしもお兄ちゃんの眼を見て、小さく、でもはっきりと言った。
「えっと、…耕介…さん」
そう答えた瞬間、お兄ちゃんの眼が少しずつ近づいて来て…私は、ゆっくりと眼を閉じて…
「――佳。…知佳?」
「…え?な、なに?お兄ちゃん?」
昔のことを思い出して、ぼーっとしてしまったらしい。
「あはは…やっぱり抜けないな、その呼び方。」
お兄ちゃんが、軽く苦笑いする。
「そうだね…」
わたしもつられて、軽く苦笑いする。
…でも。
わたしがこうしていられるのは、あのとき。
「お兄ちゃん」と呼んだ、この人が、いろんなものを、わたしにくれたから。
そして、私が傷つき、疲れたとき。
いつもここで、わたしを優しく、包んでくれるから。
だから、わたしは。
自分のこころいっぱいに…お兄ちゃんを…耕介さんを、愛している。
…力を使って、少し浮かび上がる。
わたしは顔を近づけて、少しびっくりしているような耕介さんに、キスを浴びせる。
「愛してるよ…耕介、さん」
この人がいる限り、わたしはずっと、戦っていける。
つらくても、悲しくても。時には、嫌われ、恐れられたとしても。
柔らかく抱き締められた、その感触の中で、
私はそう、確信していた。
(了)
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