井上拓巳さんによる 阿武隈川舟運における物流について    HOME 

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                      02 荒浜 

●次に荒浜の武者家について検討していきたいのですが、信達地域の幕領 城米の輸送の必要から 阿武隈川舟運の整備が進んできたんですが、阿武隈川舟運の目的地でり 海運の出発地でもある荒浜では 武者家が城米輸送に関与しています。

ただ武者家は城米輸送だけではなく 信達地域への物流にも関与しています。武者家について簡単に書いたんですが。

寛文期に河村瑞賢による城米輸送が行われ それ以降継続して城米輸送が行われこととなりました。そのため東廻り航路の各地で城米浦役人という、役人が任命されていて、荒浜では武者家の武者惣蔵という人物が任命されています。

武者家は代々城米浦役人を勤め、城米輸送業務に携わっています。また「御船肝入」という役職も兼務していて、これについては詳細がわからないのですが、川舟に関する役職ではないかとは考えています。

 武者家の城米浦役人としての役割は一つめは城米の積み替え作業ですね。荒浜まで阿武隈川舟運の、川舟で運ばれてきた城米を一端 陸に下ろして、時期をみて積み船 廻船に積み込むことになっていました。その積み替え作業の責任者 自体は代官所から派遣される代官や代官手代なんですが、城米浦役人である武者家もこの作業に関わっていたことが確認できます。


次に城米輸送船。川舟もそうですし 海船もそうなんですが、城米輸送船の監視や到着状況の確認を行っています

また城米輸送船が難破したさいの対応も行っています。荒浜周辺ではたびたび城米輸送船が難破しています。次の資料も福島県歴史資料館に入っている史料なんですが、正徳3年、城米輸送に従事していた相馬船が、荒浜沖ですぐ難破してしまったために城米浦役人が対応しなければならない状況になっています。棒線部のところのみ読みますと。

もっとも御城米 浦 おん役人 武者宗十郎殿、御番船に乗り出し、船前より河口に汐時の印を 立て だんだん 前後見届け差し引きなされそうろう」のと・・。

しかるところ 武者宗十郎殿 御番舟より、伝馬船に乗り移り元船に近寄りしそうろう間、網綱を投げ、右綱に引き船数艘 だんだんあい付けられ・・

というように 城米浦役人である武者家の武者宗十郎が番船に乗って この城米輸送船の破船という状況に対して 対応している姿がここでは確認できます。



以上のように城米浦役人として武者家は役割を果たしていたんですが、こういった公的役割の反面、商業面で活動していました。 特に江戸時代後期から明治初期にかけて、活発に行動していたことが 武者惣蔵家文書から確認出来ます。

取引の活動の範囲なんですが、まず東廻りの航路の沿岸の湊ですね。江戸浦賀銚子など あと 茨城県の那珂湊平潟などの商人との交流が確認できます

次に荒浜の周辺。荒浜の後背地である仙南地域なんですが。亘理であったり槻木 岩沼 大河原などの商人との商業活動が確認できます。 

今回のメインになる信達地域なんですが、福島 梁川 桑折などの商人との活動が確認できて、また仙台湾の湊の石巻 寒風沢 塩竃 野蒜といったとの活動が確認できます。

そのほか山形 米沢 仙台の商人との交流があることが確認できます。 

・ただ仙台城下周辺では 城下の商人仲間である、「六仲間」という集団が商業上の特権が認められていて、実際には仙台周辺の商人と武者家が取引とするのは極わずかであるように思われます。

武者家の主な取引先としては 荒浜の後背地域である仙南地域と信達地域であるといえるでしょう。

武者家の活動の性格を一言で表すと中継業 。商品の中継業を担っているというのが確認できます。たとえばですね。信達地域ではないのですが、史料三は亘理 伊達家の大豆輸送に武者家が関与していることが確認できます。伊達藤五郎というのが亘理伊達家の人なのですが、伊達藤五郎蔵の大豆ですね。この輸送に仙台荒浜積み問屋武者平十郎が関わっています。

この事例では 奥羽史料調査会で調査に入っている村田の 宮城県の村田の大沼屋正七が関わっている点がすごくおもしろいなと思います。

あと史料4のほうなんでうが、これは享保2年で 時期的にはずいぶん早い事例になります。この事例からは関東で生産されたの輸送経路が確認できます。関東で作られ茶は、水戸の近くにある那珂湊という湊から荒浜に送られ。そこから陸路で山形まで関東のお茶が輸送されることになっていました。 

ただしこの事例の場合は途中で輸送船が破船しているんで、実際には山形まで届かなかったんですけど、こういうルートが享保期に使用されていたということは注目されると思われます。


●次に信達地域向けの取り扱い商品を武者惣蔵家文書の記述から次のように書き出してみました。

まずですね。斎田塩赤穂塩砂糖・水油・魚介類・魚糟など そして、明治期以降に限定されるんですが、南京米 石油 鶏糞なども確認できます。ただし資料から確認するできる限り塩が圧倒的に多いという印象を持ちました。

その塩の流通に関して史料5ですね。こちらも武者家文書のものです。北半田村の栗和田という地名があるのですが、こちらの重左衛門という人から武者惣蔵に対して塩の調達依頼がでています。

この節 塩お持ちなされそうらはば 御払いくだされたき段 こい願い奉りそうろう、御相談にあいなりそうらはば御貸し・・読めないのですが・・塩送りくだされたく」。と塩の調達を依頼しています。

斎田塩や赤穂塩というのは瀬戸内海産の塩なんですがこれが幕末から明治期にかけて大量に荒浜に運ばれています。そしてその後 阿武隈川舟運で上流の信達地域に輸送される事例がたくさん確認出来ています。


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