槻橋修さん 最初の建築 体験記 home
AM 8:30〜 AM10:30〜 AM 11:00〜 AM11:15〜 まとめ
2005年9月14日21時21分槻橋修さんよりメールをいただいた。内容は「とうとう出来たよ〜最初の建築〜」の内覧会の案内であった。9月18日は先約があり 行くことができなかったので 10月05日にお願いし見学させていただいた。ビデオを持参し初めて「出来たての建築の中でインタビュー」を1時間チョイしました。初体験のインタビューの内容は校正中でいずれ公開まで進むことがあるかもしれません。体験記は その日4時間ほどで体験したことを基に書きましたです。槻橋さんご自身の建築に対する考えは体験記には反映されていません。 佐藤敏宏の感想ですから 誤解のなきよう 読んでいただければ幸いです
槻橋修さん
設計の
仙台建築を
体験する
AM 8:30〜
2005年10月05日 仙台駅バスプールの
11番乗り場で30分ほと待ち「
緑ヶ丘」行きのバスに乗る。目的地は 太白区鹿野本町に完成したばかりの槻橋修さん設計の建築が建つ地である。
地図を見ると東北本線
仙台駅の場所は長町あたりから北を目指す
貨物線と分岐し 西によれ北から東へと向きをかえ東仙台で合流する 逆コの字型の真ん中あたりに位置する。 真っ直ぐ北進する貨物線の中間には
貨物専用停留所が あり荷物は古道である
東街道(あずまかいどう)を進み 人間様は
仙台城へ強く引き寄せられるかのように見えおかしい。
伊達藩の人々が
奥州仕置きから開放され
岩出山を出て 現在石垣が残っている仙台城や城下町を 本多正信を通じ家康の許しをえ整備を始めたのが
1600年(仙台市史近世史1参照)だから405年前のことになる。現在は南東北の中心都市として成長続けている。
戦国期の緊張した状況のなかで
千代城をいそぎ再整備し城を仕立てなければならなかった現 仙台城や 仙台の町は 中世の城と近世の城下町の構成が混合されたつくりにならざるをえなかった。名古屋城下や会津若松の 城や町 のような 城を中心に武家屋敷や城下町が広がる構成ではない。
高台に
城があり
大きく深い川を挟んで城下町と向かい合うかたちなのだ。
戦国期の城の空間構成を現在に残しているし、城下町は近世期の空間構成を残しているのだそうだ
(千葉正樹著「近世城下町構想の土壌」・ 参照)。現在 城跡は青葉城・仙台城跡とも呼ばれ 崖際に
何度か改修されたた石垣だけが、広瀬川を隔て仙台の町を望むように残っている。
戦国期的姿を残す城と近世的な空間で合成された構造をベースに南東北の中心都市は成長していると言うことだろう。 近世的な町の特徴は
交通・交易する他所への接続可能な空間構造を持とうという意志が存在していることだそうだ。城は閉じようとし城下町は接続開放しようとする力、両力が近世当初から存在し発展し続けている町。それが仙台の特徴のようである。
城の位置は北から東へと仙台平野の西際を流れる
広瀬川の断崖。南は
名取川と
滝の口渓谷の二重の天然の地形が。西は太白山に青葉山など幾重にも
ダラダラしと連なる山々によって 孤絶しつつ自らを守る絶好の軍事拠点であっただろうとは了解できる。
特に西側のダラダラした山波は現代の土木技術でも征服するのが困難であるのかもしれない。高速道にての南IC から北へ向かう 宮城IC の間をドライブすると
出来の悪いジェットコースターなみの乗り心地である。 現在の技術をもってしてもいまだに地形の困難を征服できぬ
ゲロゲゲ高速道である。またミニ東京化を激し推し進める民間住宅団地造成軍も、天然の要塞には歯が立たぬらしく西には迫らず、南は 滝の口渓谷を望む
八木山の尾根で足踏み状態なのだ。
城跡に立ち東をの眺めると孤絶感は反転する。主要な
東街道や
石巻道が見え 先々に続く領地拡張を視野に入れ 望み暮らした城人の様子も想像できる。
阿武隈川や
北上川の流域と そこで産出された城米や大豆などの巨大物流拠点である
寒風沢の港。石巻そばの
月の浦から支倉常長と共に世界を目指し、秀吉にかわる天下への野望を抱いた人間の居場所には相応しいように思える。
戦国時的空間と近世的空間構成が強く融合し生き続け うごめいているような都市が 仙台なんな・・ 広瀬川を渡る
向山あたりからバスは右へ左へと揺れる続け進む。高度が徐々に上がって行くなか 遠い昔のことなど想像していると 八木山天辺の
動物公園あたりに出る。そこを大きく左折し ゆっくりと下る尾根状の道を走りはじめる。揺られること30分ほどで終点の
緑ヶ丘駅だ 当たりはビッシリと埋め尽くされた迷路状の住宅地なんだろうか。「ここで放り出されても〜な 迷いそうだよ〜 どこにでもある〜延々と 続いちゃうじゃないの この
住宅砂漠は・・。放置されたかのような軽い目眩を覚え ため息などついてみる。 天辺には
お天道様の姿がキラキラと見えるので どの方角へ向って進んでいるのは分る。
緑ヶ丘駅には10時過ぎに着く。乗り場が分からずもたつきバス停に30分ほどっ立って遅れてしまったが、念のために昨夜 電話を入れ約束した時間内だった。 三脚を担いだ俺を眺めバスの運転手は「
なにかあんの 〜」と聞く。「
いい住宅が出来たからインタビューしに来たの〜」と応えると 怪訝そうな顔でハンドルを回し山の天辺のバスプールに突っ込んで行く。バスの運転手にとっては 毎日毎日 何度も眺めている退屈な風景なのだろうが、
俺はこんな住宅砂漠のような場所は初めてだ。
神戸の少年A・薔薇聖徒だったかが暮らしていた
タンク山周辺だって、完成した年代の違いや持ち主の所得格差が外観や間口に見てとれたのに この山の天辺の家々のツラッコたちは それより 均質にみえるのは気のせいだろうか。
9月14日にいただいた槻橋修さんのメールによると内覧会は
18日だったが 先約がありその日はでかけることができなかった。案内状に添付してあった簡単な立面と住所をもとに
グーグル地図などで検索したり、3D地図で調べてみると 地形と建物の関係が少し分かった気分になって でかけたのだ。立面図によると「
建物が土に埋まってんのかもしれないな〜・・崖にヘバリ付くいてんだろうな〜・・周囲は雛段状の宅地がながく続いていくるんだろうな〜・・そんな敷地状況の中での 初建築 なのかもしれないな〜 厳しそうだな〜・・」
下調べをしていると今までに体験した
もの凄い崖地にある建築の記憶が蘇っていた。甲陽園そばにある渡辺豊和さんの「
地球庵」に 篠原一男さんの「
花山第4の住宅」。 今日も隆起し続けている六甲山の周囲には 六甲山の天狗こと 宮本佳明さんの
Sohoを持ち出すまでもなく 斜面に名作が多そうだ。
原広司さんの自邸も斜面に建っているけど、周囲との密集度、緊張感がそれらとはことなり余地もあるので穏やか感じだった。静かで整然とした内部構成が異様だけど崖と建築の関係仰天度では 前2者にはかなわないだろう・・と
渡辺さんの地球庵は、道から一段上に
門とチャイムは見えるも、見上げて 見上げ過ぎて倒れても 目指す地球庵と称する建築の影も形も見えない・・「
崖のかなに埋め込んだ地底建築なんかもな〜」と不安ながらチャイムを押し待つこと 5分で 発注者である安藤忠雄さんの顧問もしているという弁護士の奥様が 天から降りてこられた。
階段を上り つつ案内されるも 先人の踵が俺の目の前という崖地。 登って登って 門を見下ろせなくなると、ようやく あのまん丸い地球庵を抱えた建築の足下が見え出す 始末の超崖地だった。玄関先で 見学体験するまえに息が切れ 息があがってしまうのだった。 施工業者は難工事のため1軒潰れて「次の業者を捜すのに苦労した」と渡辺さんは建築あそびおいて語っている。
篠原さんの第4花山の住宅は 道から見上げると、超広角レンズでも 突き出す建物の一部とそれを 「頼
りなげな〜な〜 っかえ棒か〜」のように支える二本の柱まわりしか捉えることしか出来ない。花山の住宅の下の敷地にあるごくありふれた家の 裏窓から見上げれば、
今にも転げ落ちて来そうに迫って見えるのだ。 1995年12月02日に中村正義の美術館で行われた講演会で 篠原一男は「
私がこの前で写真を撮っていたら、出ていらっしゃって、地震のときこれ上から降りてきませんでしょうかと聞かれた」と語っている
(テープ起こし記録有り)。その年の初めの阪神淡路大震災に遭遇しても 「
窓にクラックが一つはいっただけだった」とのことで ずり落ちなかった とのこと。(ホッ)
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