槻橋修さん 最初の建築 体験記       home  

   AM8:30〜  AM10:30〜    AM 11:00〜   AM11:15〜 まとめ 

 そろそろ マトメよう  


 学問としての建築関係を長〜く経過中の槻橋さんには 露地物の俺とは異なる 実建築に対する態度が存在すると思われる。大きな相違点は社会的有用さから越脱してもなお概念としての建築の中にある問いを探求し続ける態度の有無であるハズだし、そうあって欲しいと望みを持っているのだが。 

ダラダラと書いてきたのは槻橋さん初建築in仙台の建築はその建築に辿り着く間に体験した事と同様な 体験感が仕込んであると感じるからである。「都市の経路体験を内包する住宅」とでも言っておこう。 

仙台駅から緑ヶ丘に至乗り合いバスから眺めたり、バス終点から 現地までの経験が都市内体験と言っていいのかどうかは戸惑うところであるが、地形が経験し蓄積された歴史のようなものの事態の上に、脈略無く布置された現代の欲望と言えるニュータウンの全体。そのなかにさらに細かく挿入付加され続ける個人の欲望があられもなく並んでいる町並み。 その内部を通過して、初建築に至。 その不快感と快感と違和感などの感情を、追体験したり、なぞるかのように「!??」のシーンが槻橋初建築には埋め込まれているのであった。

この建築が現在の学問的建築として 成功しているかどうかは判らないが 都市の経路経験を意図的に詰め込んだ建築であることは確認できる。

例えば 1階のプランに現れている。4つに単純分割され領域。それぞれの機能が与えれてはいるが機能同士の親和性や脈絡はないが有るかのように配列してる。それぞれの中を通過することによって得るものは、過去の建築体験的蓄積を 混乱させや がて 破棄にいたるだろう 体験者の内的動機だ。

同時に初建築は 眺めても体験しても内・外部ともに その中を永遠に遊泳循環することが可能なように出来ている迷宮建築でもある。迷宮を循環する〜ことによって得る 解というもの は目眩を伴うようなものなので個人的な快楽に属するものなので書き記さない。

師匠の原さんの自邸よりは大きく移動し 都市の現状に近づいている点が魅力でもあるし、「な〜んだ師匠と同じじゃないか 何が違うの?」と 疑問を発する人にも同意できる建築であった。

師匠と異なる槻橋氏の意志は 師匠のように 同一言語によって建築をチャーミングにまとめることを放棄し 体験の断絶を積極的に建築内部に持ち込もうとしている姿勢である。目指す建築は 体験の断絶を人間の想像力によって補完させるることで完結する建築とでも言えばいいかな。「なに それって」それは建築遊戯に他ならない建築であるから、普通に見える建築パーツを消化し使い切るテクが身についたときに槻橋建築は完成することになるのではないだろうか・・「全く普通の建築ジャンこれ・・」と体験した者だれもが気が付く事のない優れた迷宮建築がやがて出来上がるじゃないのかな。