T 九華公園(桑名城趾)


九華公園 関ヶ原の戦いの終わった翌年の慶長6年(1601)、徳川家康は徳川四天王の一人で腹心の本多忠勝を桑名に配置しました。忠勝は桑名に入ると、すぐに城下の町づくりを始めました。忠勝は戦国時代に伊藤武左衛門によって築かれた東城と呼ばれる城館を拡大整備して本格的な城を築きました。同時に城下町の整備も行い、大山田川、町屋川の流れを変えて外堀に利用し、町の守りとしました。忠勝の行ったまちづくりを慶長の町割りと呼びます。

 桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができ、堀は海水で満たされていました。天守閣は四重六層の勇壮なものでしたが、元禄14年(1701)の大火で消失し、以後は再建されませんでした。
 明治維新の時、桑名藩は幕府方についたため、官軍に城の一部を焼かれ、明治4年(1871)城は取り壊され、石垣は四日市港築港の資材とされました。
 
菖蒲苑
 桑名城は揖斐川に面して扇を開いたような形から「扇城」と呼ばれました。桑名城跡には九華公園という名前が付いていますが、これは昭和3年(1928)に当時の桑名町が楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年を記念して、桑名城の本丸・二の丸一帯を公園として整備した時に、江戸時代から使われていた桑名の別名「九華」にちなんで付けられました。
 これは中国に九華扇という扇があり、扇城の名と九華(くはな)の読みにかけて付けられた名前だいうことです。

 城内には桑名藩時代から祀られている鎮国守国神社があり「鎮国さん」と呼ばれ、今は桜・つつじ・花菖蒲などの名所として市民の憩いの場所となっています。

案内図

案内図表示は扇の絵をクリックして下さい

神戸櫓 神戸櫓(かんべやぐら)跡
 戦国時代、現在の九華公園のあたりには伊藤武左右衛門が治める東城がありました。織田信長の伊勢侵攻の時伊藤氏は降伏し、その後城主は度々変わりました。
 関ヶ原の戦いの少し前、一柳右近が城主となると城郭が築かれ、その時伊勢神戸城の天守閣を移したと言われています。
 江戸時代に入り、初代桑名藩城主となった本多忠勝は本格的な城郭を築きましたが、この建物はそのまま残し「神戸櫓」と呼ばれました。
辰巳櫓 辰巳(たつみ)櫓跡
 本丸の東南角にあるのでこう呼ばれます。三重の櫓でした。 天守閣が元禄の大火で焼失して、再建されなかったのでその後は桑名城のシンボル的存在でした。
 そのため、明治維新の時に、落城のしるしとして新政府軍によって焼き払われました。
辰巳櫓大砲 辰巳櫓跡の大砲
 辰巳櫓跡には大砲が置かれています。
この大砲のいわれは不詳です。
 おそらく明治時代に時報を知らせる「ドン」として使われたのではないかと言われています。
 明治時代のことですから、何らかの記録か伝承があると思われますが、こんなことも郷土史の上ではまだ分かっていません。産業(軍事?)考古学的な視点からの考証が期待されます。
天守閣跡 天守閣跡
 本丸の東北角にあり、初代城主本多忠勝が築きました。四重建(内部は六層)、一層目は8間*6間で石垣を含めた高さは約17mありました。
 元禄14年(1701)の大火で町内・城内の大半が消失し、天守閣も失われ、以後再建されませんでした。
 現在の石組みは当時のものではなく、かなり縮小した規模で再現してあります。
 跡地に建つのは戊辰殉難招魂碑で幕末から明治にかけての戊辰戦争で亡くなった桑名藩士を弔う青銅製剣型の碑で、最後の桑名藩主であった松平定敬(さだあき)の銘文が刻まれています。明治20年に建立されました。
土塁跡 九華橋詰め駐車場から鎮国守国神社社務所裏にかけて残る土塁跡

鎮国守国神社

 本丸跡に鎮座しています。天明14年(1784)奥州(福島県)白河藩主松平定信が白河城内に先祖の松平定綱(鎮国公)を祀ったのが始まりです。

 松平定綱は桑名藩の5代藩主で、本多忠勝が築いた城をさらに「海道の名城」とうたわれるまでに修築し、さらに新田開発や産業振興を図った人で桑名藩祖と呼ばれています。文政6年(1823)定信の嫡男定永の桑名への移封にともない、当地に移りました。この時定信も守国公として当社に祀られました。
 
 松平定信は白河藩主のあと江戸幕府の老中首座を務め、寛政の改革を実行して幕府財政の建て直しに成功しました。また楽翁公とも呼ばれ学問に親しみ、多くの著作や書、画を著しました。定永移封の時には定信は高齢であり、桑名へは来往しませんでした。

 しかし定信の薫陶を受けた藩士は桑名へ移り、桑名藩政や文化向上に貢献しました。また定信の書画なども桑名に多くもたらされ、その一部は当社の宝物館に収蔵されており、5月2〜3日の大祭日に公開されます。

金魚祭みこし 金魚船
松平定信は金魚を愛好したので、大和郡山の金魚屋が江戸へ金魚を運ぶ途中、桑名藩主へ献上しました。5月の2〜3日の大祭日には境内に金魚の市が立ち、金魚祭りと呼ばれるようになりました。今は旧藩士の町内からこのような子供のみこしが奉納されます。 最近は金魚を扱う業者が少なくなり、活気が失われつつあったので、今年は新しい試みとして堀に張り子の金魚が登場しました。夜には火が入って大変美しく、大成功だったようです。


三の丸御殿(新城)跡 コミュニティパーク

 新城は本丸と堀を隔て、北にあり、城主が居住する御殿が建てられました。明治維新後に建物は取り壊されましたが、一部は三重郡朝日町の浄泉坊というお寺に移築され現存しています。

 明治29年(1896)に新城跡地一帯に煉瓦造りの桑名紡績工場が建てられ、のち三重紡績、東洋紡績と変遷しましたが、昭和20年の空襲で破壊されました。

 新城及び紡績工場跡地の一部は平成元年に芝生の広場を持つ吉之丸コミュニティパークとなりました。休日には市民の憩いの場として家族連れでにぎわいます。

高潮堤防完工碑 本多忠勝像
高潮堤防完工碑
平成元年9月に伊勢湾台風30年碑と共に建設省(現国土交通省)によって建立された記念碑。
ステンレス製の円弧と2つの石柱で高潮堤防の姿をあらわしています。
名古屋の澤田造景研究所の作品。
公共物に対する心無いらくがきは許せない!
本多忠勝像
市内の矢田八幡社に伝わる陣中で指揮をとる本多忠勝画像を元に、平成2年に中川梵鐘の六代目中川正知さんが彫塑化して制作した銅像。どっかと腰をおろした堂々の偉容です。