願證寺 (又木434)

 長島山と号す。浄土真宗本願寺派。願證寺は戦国時代、長島一向一揆の舞台となった寺として悲惨な歴史を今に伝えている。

 願證寺は文久元年(1264)に杉江に法泉寺が作られ、本願寺3世覚如の頃に願證寺の寺号を与えられたことに始まるといわれる。この願證寺が勢力を拡大して行ったのは、明応8年(1497)に蓮如の第13子蓮淳が寺主として迎えられてからである。

蓮淳は一向宗(浄土真宗)の教勢を拡大させるために東海地方の巡業を行った際、交通の要所でもあり、天然の要衝でもある長島に目を付け、ここに一向宗の一大拠点を作り上げた。

しかし織田信長によって一向一揆は殲滅され、願證寺の跡は今は長良川の河川敷となっている。

現在の願證寺は江戸時代初期に門徒のために祐泉寺として開山され、明治に入り寺縁を継いで願證寺の名称で呼ばれるようになった。現本堂は天保15年(1844)建立。
 境内に昭和49年(1974)一向一揆400年供養祭に建立された「長島一向一揆殉教の碑」が建つ。

当寺出身の菫月一露(きんげついちろ、明治40年=1907没)は与謝野鉄幹に師事、19歳で詩歌集「鬼百合」を出版し明治の鬼才と期待されたが病に冒され20歳9ヶ月で夭折した。

長島一向一揆殉教の碑
昭和49年(1974)一向一揆400年供養祭に建立
願證寺のあったとされる杉江の旧地は
明治の木曽三川河川改修により長良川
の中になってしまっている

長島一向一揆とは
 今から四百数十年前、一向宗の総本山石山本願寺の蜂起要請に応じ、長島の願証寺を中心に起こった門徒集団と時の権力者織田信長との権力闘争。一揆は木曽三川の下流域を中心に展開。門徒衆は長島城主の伊藤重晴一族を追い出し本拠地とし、長島城を中心に5カ所の城砦(じょうさい)が築かれた。元亀(げんき)元年(1570)一揆は信長の弟信興((のぶ)おき)の小木江(こきえ)城を攻め、信興を自害に追い込んだ。

  それに対し信長は元亀2年、同4年と長島を攻撃したが輪中の地の利を活かした門徒衆に敗退、そして翌天正2年(1574)信長は志摩の九鬼水軍の数百艘の軍船とともに陸海から攻撃、兵糧で食糧難にあった一揆勢は降伏したが皆殺しにされ、桑名側の中江城、屋長島城では逃げ込んだ2万人の男女門徒衆に柵を設けて焼き殺す「根切り」と称する徹底的な惨殺を行った。2万人といえば今の長島の人口の2倍以上。こうして一向一揆は壊滅した。