長島城跡 (西外面)

 長島城は寛元3年(1245)藤原道家が鎌倉幕府より嫌疑をかけられ長島に流されたとき、西外面(とも)に館を設けたことに始まる。その後、室町時代には北勢48家の一つ伊藤重晴がその居城として長島一帯を治めた。織田信長の長島攻め(長島一向一揆)の時には長島本城として激戦の中心となった。

 江戸時代には菅沼氏、松平氏などが長島を治めたが、元禄年間に増山(ましやま)氏が2万石で城主となってからは明治維新を迎えるまで、増山氏の城下町となった。しかし廃藩置県後の明治9年(1876)伊勢暴動により大書院をはじめほとんどの建物が破壊された。

 現在、長島城跡は長島中部小学校と長島中学校になっている。学校の東側を流れる長島川は長島城の堀の機能を持っていた河川である。小学校の校庭にそびえる市指定天然記念物「大松」は長島城本丸の西南隅にあったクロマツで樹齢約300年と推定されている。
校門の近くには幕末まで8代続いた増山氏の事跡を顕彰した明治21年(1888)建立の増山氏世系碑がある。

壕跡である長島川から大手橋を望む

大松(市指定天然記念物)
長島城本丸の西南隅にあったクロマツ
で樹齢約300年と推定される.
樹高約15m、胸高円周約2.8m
増山氏世系碑
幕末まで8代続いた藩主増山氏の事跡を
顕彰した碑
明治21年(1888)建立
長島中学校
天守閣を模した展望塔屋を持つ