長島六坊

長島六坊は織田信長の長島攻めに抵抗するため石山本願寺から寺侍として願證寺に送り込まれた僧らによって創建された寺院。長島一向一揆では門徒衆の旗頭として活躍した。長島落城後は一時それぞれ石山本願寺や北陸方面へ退散したが、豊臣秀吉が天下を統一した頃には、これらの僧やその師弟らは長島に帰ってきて再び一向宗の寺を建てた。

長島六坊はすべて真宗大谷派の寺院で、元禄年間に六坊の公称が認められ、白袈裟着用を許されるなど大谷派の中でも一般末寺とは異なる特別な地位が与えられた。
長島六坊は全てが長島にあったが、その後他所へ移転した寺もあり、現在は次の4寺院が残っている。

深行寺(じんぎょうじ) (殿名(とのめ)891)
佐々木山と号す。深行寺の祖、平野知苑は一向一揆の後しばらくは越前(現福井県)にいたが、寛永年間(1626年頃)長島平方(ひらかた)に寺基を移したといわれている。その後、元禄年間頃までに現在の殿名に移転した。
本堂は長島城内の書院を移築したものであったが、昭和63年(1988)老朽化のため改築された。
光栄寺 (西外面)
銀杏山と号す。光栄寺の祖、飯田九蔵は一向一揆には門徒衆の旗頭として願證寺のために活躍した。兵乱の後長島に戻り、寺基を定めた。しかし宝暦の洪水を受け、現在の西外面(ども)に堂宇を再建した。
源盛寺 (平方(ひらかた)573)
岡本山と号す。長島一向一揆の際願證寺の配下で門徒衆の旗頭として働いた岡本庄助を開基とする。長島落城後はしばらく身を隠していたがまもなく長島に戻り、現在の平方に寺基を定めた。
善明寺 (中町)
長崎山と号す。善明寺の祖、長崎新蔵は一向一揆の後しばらく尾張にいたが、その後長島に戻り、寛永12年(1635)現在の中町に寺基を移した。現本堂は大正4年(1915)の再建。