ニギハヤヒの命降臨( ^)o(^ )
 

新緑の中、瞳を開いた五月の女神! 
風かおる五月九日(平成22年)(*^。^*)。 
今年も「古事記に親しむ会」の皆様たちと、課外授業で教室を離れ「神あそび」を楽しんできました。(午前中、交野、磐船神社・岩窟くぐり〜午後、枚岡神社奥社登拝&正式参拝と宮司さまの講話)ちなみに昨年は三輪山イワクラ登拝でした。


磐船に乗って河内の国の河上、「タケルが峰」に降臨

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)このような最長のご神名をもつ神様が磐船神社のご祭神です。

ちょつと聞きなれないお名前ですが、消された大王・にぎはやひの命として物部ファンや古代史マニアに注目されている神様です。古事記・日本書紀にはこの神様は出てきませんが、先代旧事本紀には物部氏の祖神として登場します。(但し、どうしてもニギハヤヒを知ってほしかったので「古事記のものがたり」の本には天孫降臨・ニニギの命のお兄さんとしてお名前だけは載せています((P204)。

この時、十種の神宝と一緒に32人のお供を連れて降臨されました。にぎはやひ一行が乗ってきた磐の船の残骸が交野を流れる天の川に散乱し、船のヘサキの大岩(12m×12m)が神社のご神体となっています。このあたりはかつて交野物部氏の本拠地だったのですが、仏教派の蘇我氏との戦いに敗れて後、物部氏(神道派)の衰退と共に磐船神社も長く忘れ去られてしまいました。

その後この岩窟は修験道の行場となり、周辺の大岩に仏様が何体も彫られています。

長い間に渡り、行者以外は立ち入り禁止だったそうですが、明治になって再び神社として復活。戦前、近鉄が交野や私市のハイキングコースを整備した際に、観光客が立ち入りやすいように丸木の橋を架けたということです。鉄の階段や岩窟くぐりのコース、侵入経路が白ペンキで書かれているのはそのおかげなのですね。

整備されたとはいうものの、見上げるほどの巨岩がゴロゴロ転がっています。今にも崩れ落ちそうな岩の隙間をドキドキ・ハラハラしながら進まなくてはいけないので、この日の岩窟内は「古事記に親しむ会」の生徒さんたちで大渋滞。

男性軍がポイント、ポイントで怖がる女性に手を貸したり、声を掛けて励ましたりと、皆さんが無事に出口に出るまでなんと一時間も費やし、帰りに乗る予定のバスが出てしまいました。このハプニング(*^。^*)に晴明さんは一人で時間を気にしてオロオロしていたようです。

岩窟くぐり希望者は社務所に拝観料500円を支払って白いたすきを頂いてから入場してくださいね。ただし、雨天の場合は岩窟内に川水が溢れ、丸太の橋も滑りやすくて危険なので、入場禁止になるそうです。事前に神社に問い合わせてから参拝してください。

最大の難所は、岩の隙間の小さな穴を足から滑り落ちるようにして真下に下りる所です。幼児は背丈が足りないので入場禁止ですが、太った人は途中で穴に挟まってしまうかも(*^。^*)。どうしても入りたい方はあらかじめダイエットをお勧めいたしまぁ〜す。

画面左下の写真ですが、中央の矢印の下に人が豆粒のように写っているのが判るでしょうか?とにかく現地に行ってみないことにはその岩のスケールはとても写真には入りきれません。

阪神大震災でもびくともしなかった大岩たち


右の写真は出口付近に、でぇ〜んと、お祀りされている大岩(岩戸大神)です。

傍には「登美毘古大神」と彫られた石碑もありました。にぎはやひを支えていた、トミノナガスネヒコのことですね。神武天皇が大和に入る時にその上陸を阻止して戦った豪族の首長だったのです。

神武が敵ではなく同じアマテラスの系統(ニニギの孫)で、同じ天孫族と判ったニギハヤヒに(裏切られて)殺されたとされていますが・・・?

津軽外三郡誌では、人知れず東北に逃れてアラハバキ神となったとか・・・? 真実はいまとなっては闇の中ですね。


元春日、ではなく枚岡(ひらおか)神社が元なんだよ( ^)o(^ )

さて、バスに乗り遅れたものの・・・なんとか無事にタクシーを調達。生駒駅から近鉄電車で枚岡神社に到着、梅林公園でお弁当タイムです。

昨年夏に枚岡神社の宮司様に就任された中東宮司様は、笑いながらこう言われます。
「奈良の春日大社に30年近く勤務していた頃は、東京に行って春日の名刺を出すと、皆さん「あの! 春日さんですか!」と言われたのに・・・
今回、枚岡神社の名刺を出すと「はぁ〜? マイオカさん? ・・・と言われてしまう。
こっち(枚岡)から春日に分祀したのになぁ〜〜」

そうなんです。
全国的には枚岡神社はまだまだマイナー。
でも、ここがかつて神武東征の時、天皇が日下(クサカ)に上陸して大和に入る前に、まず天津地祇を祭り、国の平和を祈ったと伝わる場所(枚岡の神津嶽)なのです。

この土地(東大阪市出雲井町)には、中臣氏(藤原氏)の同属である平岡連が住んでいて、天児屋根命(岩戸開きの時に祝詞を奏上した神様)を奉斎していたとのこと。藤原氏が隆盛になり、春日山に春日大社が建立された際に枚岡神社からご祭神を分霊したとのことですよ。

また、枚岡神社は私たちが転居して、四年前から住んでいる(河内の国)の一宮でもあるのです。中東宮司様とは春日大社時代から「古事記のものがたり」の本を温かく応援して頂いていたので、今回のご神縁に大感激(*^。^*) 



昔はこの神社の真下まで海(河内湖)だった。

話は変わりますが、枚岡神社のすぐ前は、とても急な崖になっています。
そのため、神社のすぐ下を走っている近鉄電車は枚岡駅のホームに止まった時、車体が斜めになったまま停車しているのです。

「昔は大阪平野は海(汽水湖)になっていて、大きな河内湖があった」と説明すると、古事記に親しむ会の会員さんの姉妹(この近くに住んでいる枚岡神社の氏子さん)が・・・、「そうなんですか! それなら、私の家も昔は海の中だったのですね! ぜんぜん知りませんでした(*^。^*) 」といってびっくりされていました。

この日は爽やかな五月晴れだったのですが、あいにくの黄砂で、大阪湾や淡路島は展望台からは望めず、本当に残念でした。

午前中の予定がかなり遅れたため、お弁当もそこそこに展望台〜神津嶽の奥社に向かってハイペースでの登拝となってしまいました。そのため、私はみなさんの足手まといにならないようにお山に登るのは止めて、梅林公園でしばし昼寝をすることにしました。

このコースは一般のハイカーのために、道がきれいに整備されています。またいつの日か、新緑とウグイスの声を聞きながらのんびり、ゆっくり再挑戦してみますね。

拝殿前までみんなを迎えにきてくださった中東宮司

午後二時からは拝殿前に再集合して正式参拝と宮司様のご講話を拝聴しました。正式参拝の時の神楽で巫女さんが剣を持って舞ってくださったのには一同感激でした。

枚岡神社には他にも剣の神様、たけみかづちと布津主の神さまもお祭りされているので巫女神楽が剣だったのも納得かも? そういえば、二の鳥居の両横にも立派な剣が建てられていましたね。

肝心の中東宮司のお話ですが、枚岡神社の由緒だけに留まらず。
「大和言葉」や言魂、幽体離脱をした人の話、最新の科学と宗教が近づいてきているという話、アメリカの精神世界ではようやく「祈り」の力が注目されてきたという村上和雄先生のお話。などなど・・・いつものように広い分野の視点に立ってすばらしい講話をしてくださいました。(毎月一日の旬祭(午前十時〜)でもお話が聞けますよ)

最後の締めくくりに、春日大社で長年に渡り習得された狂言を一節。そして祈りのある正しい笑い方「あはっはぁー(*^。^*)(*^。^*)(*^。^*)」と、みんなで大声で笑って、会場中はパワーアップ! この日の爽やかな課外授業を無事に終えることができました。

じつは、枚岡神社では毎年12月25日に新しい注連縄を鳥居に掛けて、その下で全員で大声で笑うという「笑いの神事」が伝わっているのです。岩戸開きの神様「天児屋根命」さまゆかりの神社ならではのご神事ですね。中東宮司はこの笑いの神事をもっともっと多くの方々と共有して「祈りの笑い」で世の中を良くしていこうとされています。

宮司様に賛同して下さる方は今年も12月25日午前十時に枚岡神社に参集してくださいね。新しい注連縄の下で、祈りの笑い「あっハッハー(*^。^*)」と大声で笑って、夜には家でクリスマスケーキを食べましょう(*^。^*)(*^。^*)(*^。^*)


磐船神社での岩窟くぐりが大混雑の渋滞になってしまって、バスに乗り遅れた以外はすべて神はからいを頂いて和やかにスムーズに進行できました。私がぼんやり、のんびりしていたので(お弁当を食べた後、お昼寝!)、晴明さん一人に○○観光の添乗員のように時間を気にさせて走り回らせてしまって・・・少し反省しています。

まだまだ引率経験不足ため、ご迷惑やご心配を掛けましたが、皆様のご協力のおかげで事故も怪我もなく無事に終了できました。本当にありがとうございました。

後で寄せられた感想文を読みながら晴明さんは「みなさんが、こんなに喜んでくださったのなら、また、夏に楽しいことを計画して「大人の遠足}実行するぞ!「イタキソ神社正式参拝&紀の国風土記の丘ツアー(勾玉作り)}なんかどうかなぁ〜?なんて張り切っています。楽しみにしてくださいね。

そうそう、今回の課外授業参加者は二時から途中参加してくださったご夫妻を入れて総勢32名>なんと!にぎはやひの命様のお供の数と同じになりました。不思議?


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